発災
2013年11月8日、フィリピン中部レイテ島を襲った大型の台風30号(アジア名ハイエン)は、被災者970万人、死者行方不明者1万名以上を出し、避難住民も62万人近くに達するとされた。
この災害に認定特定非営利活動法人 災害人道医療支援会(Humanitarian Medical Assistance、以下 HuMAとする)では、現地に先遣隊を派遣し医療支援について調査を開始した。
その先遣隊の報告によると被災住民の多くは下痢・皮膚病・上気道炎等の呼吸器疾患、眼病を患っていることがわかった。
これらの結果を受けて被災住民に対してHuMAでは1ヶ月間の巡回診療を実施することになった。
支援活動
はじめに
フィリピンのレイテ島やサマール島は、2012年6月にPP12で訓練活動に参加した思い出多き地である。
さらに同年12月に発生した台風24号(ボーファ)による甚大な被害を受けたミンダナオ島にて、2013年1月にHuMAは1ヶ月間の医療支援活動を行い、私も1月下旬に10日間参加している。
過去に訪れた場所でもあるので、私はすぐにでも第1次隊として支援活動に参加したかったが、既に予定されている仕事の日程調整上から、第2次隊として2013年12月1日~8日までの8日間、支援活動に参加することとなった。
活動参加へ
2013年12月1日、支援活動に参加するため朝5時過ぎに自宅を出て成田空港へ向かう。12月の朝5時はまだ夜が明けていない。
昼過ぎにはマニラ到着、きっと暑いだろう、厚着は止めようとできる限り薄着で成田に向かったので“寒いー”と感じる。
東京成田09:30発、フィリピンマニラ空港13:30着。何と2時間遅れでマニラ着。
セブ市内のモンテベロビィラホテル(Montebello Villa Hotel)には、明るい時間に到着してホテル界隈の散策予定あったが、明日早いので夕食にフィリピン料理を食べ早々に明朝に備えることにした。
12月2日は朝4時30分にホテルより桟橋に向かい、海路でレイテ島のオルモックへ。
サビンリゾート(Sabin Resort Hotel)はオルモックで一番人気があるリゾートホテルとのこと。確かに高級リゾートホテルと感じられ、のんびりと数日滞在するとかなり癒されるのではないかと思うほど。
しかし、このホテルも台風による被害を受け最上階の3階はほとんど使用できない程であった。
ホテルから車で一歩出ると道の両サイドはスラム的な建物や台風による被害が目立つ。
午後から診療先に向かい、第1次隊の皆さまにご挨拶を済ませ、いよいよ活動開始!
活動場所
12月2日 Barangay Calnangan
12月3日 Barangay Casilda
12月4日 Barangay Lamanoc
12月5日 Barangy Libjo
12月6日 Barangay Cambalong
1日の医療活動のながれ
- ホテルを7:30~45分の間に、出発車2台に分乗して出発
- Merida Rural Health Unit(RHU)で前日の診療情報(カルテ控え+SPEEDレポート)を報告
- 通訳などの支援をお願いしている地元医療スタッフとともに診療サイトへ移動
- 医療支援活動
- Merida RHUにて本日の活動概要を報告
- 夕食後にミィーテング
12月3日の活動内容を紹介
私の活動期間中はほぼ以下のような流れで活動を行った。
7:45
ホテル出発
8:20
Merida RHUに到着。前日の診療情報を看護師に手渡し活動を報告する。
本日の私たちの活動を支援してくれるRHU看護師(3名)の紹介をうけ、ともに活動場所であるBarangay Casildaに向かう。
8:40
Barangay Casildaに到着と同時に車から荷物をおろし、本日の診療所を設営する。既に村の人々は20人ほど列をなしていた。
9:15
診療開始。本日の医師2名、HuMA看護師3名、RHU看護師3名の8名体制。
11:00
受診者数が落ち着いてきたため午前診の受付を終了する。
11:15
午前診 終了。
13:00
午後診 開始。
14:30
全受診希望者を診察し、本日の診療を終えた。受付総数は81名であった(小児 [15歳以下]:33名、成人:48名)。
14:50
診療所を撤収。
15:30
Merida RHUに到着。今日の活動概略の報告をリーダーが行い、RHU看護師3名と別れる。
15:50
メンバーとともにOrmoc市内のショッピングモールスパーマーケットに向った。
台風による被害が大きく、コンクリートによる頑丈な建物にも関わらず2階は青のビニールシートで覆われ閉鎖されていた。食品棚には見事に品物が置かれてないコーナーもあった。また、物資は供給されているものの紙おむつなど一部の商品は供給が不十分と見受けられた。
16:10
Ormoc市内のドラッグストアー(Mercury Drug)に立ち寄ると、大手チェーンの流通網によるものか、流通が回復しており商品棚は薬であふれていた。
このストアーにない薬も数日で手配できるとスタッフから返事が返ってくる。他のNGO団体もこちらで薬を調達しているらしく店内で挨拶を交わした。
17:00
ホテル帰着
18:00~18:30
ミーティング 業務の役割分担を行った。
20:30~21:15
引き継ぎに伴い、資機材の所在確認を行った。不足物品については事務局に追加での手配を依頼した。
21:15~22:10
各々で分担作業を行う。
22:10〜23:00
健康状態(全員OK)、進捗状況の確認、明日の行動計画を確認し、その後、解散。おやすみなさい…。
食事について
6:00からの朝食、18:30~20:00の夕食
ホテルのレストランは、大変おいしい食事を提供してくれる。
宿泊者だけでなく近隣の支援団体も食事に来ているため混んでいて、食事が手元に届くまで結構な時間がかかる。フルーツも美味しく特にスライスしたパイナップルは芯まで軟らかく甘かった。
昼食
2013年1月の時も同様であったが、毎日地元の方から自主的に差し入れて頂く食事をご馳走になる。
お心遣いに感謝しつつも、“せめて材料費だけでも”と申し出たが「普段からしている“ゲストに対するおもてなし”ですからお金は要りません」と頑なに断られたため、改めて全員でご感謝し、ご馳走になる。
非常に暑い地域、保存のこともあり塩分がかなり多量に使われている。(失礼ながら)私にはちょっと塩の味付けがキツイ。高血圧者の多いことが頷ける。
「支援は自己完結、被災地・被災者の方からお食事をいただくなんて」と言う意見するかたもおられると思う。
私たちは最初から昼食をあてにしている訳ではない。非常食など持参しているが、私たちの活動に対してという先方さまの気遣いをこころ良くいただくことも、より良い活動していくためにも必要なことだと私は思う(あくまでも私の意見として)。
帰還
12月7日、活動も終えて12:00過ぎに港に向かう。
「1時間は遅れますよ」と言われていたので覚悟はしていたが、なんと2時間遅れ。セブに16:00には着く予定が何と出航が16:00時すぎとなった。
残念なことに行きも帰りもホテル界隈の散策も出来ずに、明朝5時起きのために早々に夕食済ませ明日に備えた。
セブ8:00発、東京成田13:20着。こちらは遅れることなく無事に成田東京国際空港に着いた。
おわりに
活動期間中に4WDを2台借り入れられたことから、山間部にも医療活動を拡がられることができた。地元の方から強く希望されていたことでもあり、多くの場所に伺えたことは大変良かったと思う。
私たちがやりたいと思うことを、被災地で実践できることは周りの多くの支援があってこそ成り立つということを改めて学んだ。
私の役割
私の担当は、受診希望者の集まり状況などを見ながら、午前・午後の受付終了時間を決める。特に受付を担当しているRHU看護師に伝え、午前中の診療は11:30分位には終わるようにした。
また途中の休憩も、全員が交代で取れるよう配慮し声かけ等を行った。
本日も快晴で日差しがとても厳しかった。気温35℃、湿度70%。熱中症の厳重警戒が必要であった。
各自が水を多めに持参して、こまめに水分摂取をしている。私も日本の夏でも信じられない程水を飲んでいる。HuMA現地ロジも自主的に医師の後ろに立ち団扇で扇いでくれるなど、全員で熱中症を予防している。
体力温存を優先、暑いの中での活動なために昼食後も十分に休憩が取れるように配慮した。
毎年襲ってくる台風に負けない、負けてはいられない。生きていく強さというより、生き抜く力強さをもっていると感じられる。
中国四川大地震の支援活動中に、農村の方が語った言葉「農民は金をもって無いだけだ、土地はある。食べ物はある。生きるすべをもっている」。
ハイチでは牧師が「辛い時こそ笑おう、どん底の時ほど笑おう、笑って前を向こう、笑っても怒ってもタダだ。だったら笑おうと子どもたちに伝えている。子どもたちは来年の自分の誕生日を迎えられるかわからない、だからこの国には自ら命を絶つ自殺者はいない」。
思い出したこれらの言葉の重みを深く感じた。
一緒になったRHUの2人の看護師に「貴方の家は?」「この近くです」「じゃ被害があったのでは?」2人が声を揃えるようににっこり笑みを浮かべながら語った。「屋根がありません…」。
確か1月の時も同じであった。通訳を手伝って下さった赤十字の看護師さんも自宅が全壊したと。このような環境下でも私たちの活動を支えて下さることに申し訳なく思いながら、彼女たちの気持ちに深く感謝する。
一人のRHU看護師から「フェースブックやってる?」と聞かれ、とりあえずは「やっている」と伝えると、当日の夜には、その彼女から連絡が入った。
被災地一帯停電、町並みは決して裕福とは言えない家々。しかし、多くの若者はスマートフォンを持っている。この時代の流れと被災地とのギャップが理解し難い。
嬉しかったこと
日報報告記載担当者が「山崎NSの巧みな技:子どもとコミュニケーションを取りながら、けがの有無を確認し、傷を発見し診療所に連れて行った。」と記載し報告された。
私としては特別な事をしたとは思えないが、しかし、私の行動を見てきちんと評価されることは大変嬉しいもので、良い思い出となった。