Participate Pacific Partnership 2012
概要
米海軍を主体とし、アジア太平洋地域を艦船が訪問し、各国政府、軍、国際機関及びNGOとの協力を通じて参加国の連携強化や国際災害救護活動の円滑化等を図る活動。
目的
国際緊急援助活動及び国際平和協力事業に係る自衛隊の医療及び輸送に関する技量の向上を図るとともに、関係国との相互理解及び協力並びに民間団体との協力を図る。
主要実施項目
アメリカが各国に呼びかけ2007年よりアジア太平洋地域で毎年行い、本年は日本やアメリカ・カナダ・オーストラリアなどの12カ国の軍の医療チームやNGOが参加し、フィリピンやベトナムなどで大規模な医療支援活動が行われる。医療施設の整ってない地域の住民に内科や歯科診療などを行う。
- 医療活動
- 人員及び物資搬送
- 文化交流
訪問国
フィリピン・ベトナム
活動期間
平成24年6月17日(日)~6月30日(土)
(パシフィック・パートナーシップ12ロジブック事前説明会資料より一部抜粋)
私は平成24年6月17日(日)~6月30日(土)の日程でフィリピンでの医療活動にNGO(非政府組織)として、NPO(特定非営利活動)法人 国際緊急医療・衛生支援機構(International Emergency Medicine and Health Support, Japan:IEMS―Japan)の一員として参加、活動の機会をえた。
他に特定非営利活動法人アムダ(Association of Medical Doctors of Asia 以下AMDAとする)から参加。
活動開始
6月16日(土)
活動前日に沖縄県那覇市入り
羽田19:55 JALにて沖縄那覇へ向かう。22:30沖縄那覇空港着 22:50ホテルグランビュー沖縄着
那覇空港に着き飛行機より出た瞬間、暑さと湿度の高さに驚く、梅雨とはいえ沖縄の梅雨は尋常ではない。思わず、「暑い」と一言、後ろを歩いている若い女性が「カビそう」とつぶやいたのが印象的な表現だった。
さぁー今日から活動開始
6月17日(日)
9:00 ホテルロビーに7名全員集合 自己紹介
(医師1名・助産師1名・看護師5名 、男性2名・女性5名)
IEMS:医師1名、看護師4名 AMDA:助産師1名、看護師1名
10:45 那覇国際空港に向けて出発
14:25 海上自衛隊(以下海自とする)C1マニラに向け離陸
16:55 マニラ国際空港着
17:30 MANILA PAVILION HOTEL着
18:00 夕食
メンバーはとても気さくな人たちばかりで楽しく・仲良く活動ができそうと思う。これから寝食共にする仲間、何より人間関係が大切、皆さんとの出会いの第一印象は「上手くいく」と感じられた。
初めて航空自衛隊機C1に乗った。(もしかして15年ほど前に、埼玉県の自衛隊基地から硫黄島に遺族のお墓参りの付き添いとして東京都より派遣された時に乗ったのかもしれない、すると2度目?)騒音から耳を守るため耳宣をし機内へ…もちろん快適とは言い難いが、私は機内で注意事項の説明文を読み終わると同時に離陸を知らないほど現実の世界から意識はとうのきもう眠っていた。「民間機に比べC-1は乗り心地悪いよ」とう事前の説明よりは快適だったかもしれない…。民間機と比較する対象ではないと思うが。。
ホテルに着き早速夕食、このホテルは外国人宿泊者用のホテルとして有名なようだが、日曜日の夕食の時間とあって、フィリピン人家族も多く賑わい食事を楽しんでいた。食事形態はバイキングでそれぞれ思い思いの物を食べて最初の食事を楽しんだ。会計ではそれぞれが銘々に支払う事にしたところ、これが大変!なんと支払い完了するまでに約一時間程要した。20時を過ぎこれではマニラ市内で買い物ができないと皆いらいら…日本だったらその場で対応してくれるのに…いやいやここは日本ではないフィリピンと思いながらも腰が浮き始める。ホテルに残る人に皆カードを渡し急いでマニラ市内に消えて行った。
夕食代は2000ペソ。此方の物価からみるとちょっと高すぎる!日本円で約4000円位
6月18日(月)
3:35 マニラ国際空港に向け出発 バスの中で朝食 お弁当の中身は。ゆで卵2個、バナナ味のパウンドケーキ、チーズとハムのサンドイッチ、フランクフルト。パンはもそもそ、やはり日本のパンは美味しい、フランクフルトは昨晩の夕食の残りかな?
5:40 MANIRA発
6:55 TACLOBAN(タクロバン)着
7:00 バスに乗車し目的地へ
14:10 CALBAYOG(カルバヨグ)桟橋に到着 作業艇に乗船し輸送艦「おおすみ」へ
14:30 輸送艦おおすみ艦内へ
出迎えてくれました
「おおすみ」は港外入港(投錨)のため、これからは桟橋までを作業艇にて往復することになる。予定通り(?)に船酔い、一昨年のPP10でカンボジア支援の際、船酔いし吐き辛い思い出があるため恐怖の時間だった。が、一昨年の様に吐くことはなく済んでやれやれ…。
「遅い昼食を」と言う時間になった。気分不快のなかに昼食の時間、メニューはカレー、なんとこの海自のカレーが「とても美味しい」食欲がでたのはどうしてだろうか?
15:30 全体ミーティング、この洋上での生活についての注意事項や明日からの活動についての説明を受ける。
17:30夕食 ご飯・付け合わせレタス・磯辺揚げと利休揚げ・牛蒡汁・ハンバーグ・焼うどん・なます。カロリーは1,277kcal
20:00 消灯 明日からサイトで医療支援活動開始
活動日の1日のスケジュール紹介
4:55 放送「総員起こし5分前」
5:00 放送「総員起こし 起床・寝具整頓・人員チェック」
5:15 放送「配食用意 配食はじめ」
5:30 出発
5:45 ~LCACに乗船~
6:45 CALBAYOG桟橋着
7:00 桟橋出発(メンバーはワゴン車に分乗)
8:00 活動医療サイト着
9:00 活動開始
16:30 活動終了
17:30 桟橋着
45 おおすみ乗船
18:00~ 夕食 うなぎ蒲焼 うどん(多分讃岐うどん?)今日も美味しいお食事に感謝
19:00 放送「甲板清掃」 居住区画の清掃、整頓・人員チェック
19:30 巡検 清掃状況・火の元の点検等 日没時 灯火管制 艦内の照明を赤灯(05:00まで)
22:00 消灯
※休日の場合は、朝食までと夕食後は同様に勤務者と行動し、8:00 国旗掲揚(甲板)に参加
開会式 NORTWEST SAMAR STATE UNIVERSITY
19日(火)
10:30 開会式参加
10:00開会式開始の予定が遅れること30分
開会式でアジア太平洋地域を担当するアメリカ海軍太平洋艦隊のセシル・ヘイニー司令官は、「私たちは台風や洪水、津波などの災害がいつ起こるか分からない世界で生きている。この医療支援活動を通じて連携を深めることで、どのような危機にも対処できるようにしたい」と話しました。(NHKニュース クローズアップ現代から)
輸送艦「おおすみ」
LST(Landing ship,Tank)-4001 OHSUMI
おおすみは護衛艦隊直轄、第一輸送隊に所属、最大の特徴は2艇のLCAC(エルキャックLanding Craft-Air Cushin)を搭載し高速で大量の武器兵員を輸送できる輸送艦。輸送艦の1番艦として、平成10年3月に就役しました。
(おおすみパンフレットより一部引用)
この特徴とするLCAC(輸送用エアクッション艇)のコックピット見学の機会を得た。最寄りのカルバヨグ桟橋まで人や物を輸送する際に見学者としてコックピットへの乗船が許された。出発時や桟橋につける時などヘッドホーンから聞かれる言葉のやり取り、専門的かつ短い文章、そしてまるで目が分度器の様に例えば左60度等と、桟橋の方とのあうんの呼吸、そしてぴったり横づけ、凄い。感動。3人が一組、いつも3人が一つになって訓練していると説明された。
洋上ライフをエンジョイ
私(たち)は、連日輸送艦「おおすみ」に宿泊し医療サイトでの医療支援活動を行った、2週間は洋上ライフをエンジョイしながらの活動であった。
前述の【活動日の1日のスケジュール紹介】にある様に、毎朝(休日含む)5:00起床から22:00消灯の流れは特別な事がない限りいつも変わらず、決められた時間に決められた様に行動する。この規律正しい生活が私にはかなりのストレスになるのではないのかと懸念していたが、振り返ると実際には洋上生活をかなりエンジョイしていたようだ。
艦内放送
4:55 「総員起こし5分前」からの放送に始まるが専門用語で放送が流れるので慣れないとかなり聞き取とりにくい。例えば、「今からからシャワーを許可する14:00~19:00まで、甲板掃除・19:30巡検 巡検終了~22:00まで 節水に努めよ」(時間の読み方:ひとよまるまる(14:00)からひときゅうまるまる(19:00)、ひときゅうさんまる(19:30)からふたふたまるまる(22:00)
艦内放送は一度しか放送されない、従って聞き逃すことができない。明日の活動は、何時に何処に集まるのか、しっかりと聴いてないと乗り遅れるどころか多くの皆さんに迷惑をかける事に繋がる。活動開始の頃、私は5時起床5時45分出発と思っていたところ、なんと5時30分出発であった。このことを知ったのが5時15分丁度朝食開始の時、慌てて5分で朝食を済ませた事があり、それ以来放送にはしっかり耳を傾け、また廻りの人の動きにも注意をはらう様にした。
感謝の食事 〜 毎食家庭の暖かさを感じる食事 おおすみの食事に感謝
食事は「最高に美味しい!!」の一言 食事担当者の皆さんにはこころから感謝の気持ちで一杯です。“ありがとう”
受け手である受診者が笑顔で医療を受けられ帰宅できることは、医療者がいつもと変わらずに良い活動を行えるような環境にあること、それはまず、「衣・食・住」が確保されていることだと思う。特に「食」は毎回最高に癒されていた。日中の暑い中での活動、疲れている時のお弁当の味は午後からの元気の源になった。大体出前の弁当は3日食べるとあきると言われているが海自おおすみのお弁当は家庭の味、作った人の暖かさが感じられる最高に幸せのお弁当だった。
活動中は米軍と休憩室が一緒、米軍は毎回同じようなレトルトパックの昼食を横眼で見ながら、私たちは毎回違う副食に、皆が「おいしい!美味しい」と笑顔で口にほおばる。その姿に1日の活動の最後に行われる全体ミーティグの際、米軍のリーダーは、「明日は日本のお食事と交換してほしい」と語られたほどであった。 ご飯が美味しい、朝の味噌汁が旨い、揚げ物がカラッと揚げられて…なんと言っても、カレーライスが凄く美味しい、一つ一つを挙げていたらきりがない…。一週間ほど過ぎるころから艦内で生活している人の中に、体重計に乗る姿が見られるようになった。皆一様に「太った、太った」と。「美味しいので、でも、食べないようにすると(暑い中での活動で)倒れるといけないと思い食べてしまう」。ともあれ私を含め皆美味しいお食事には勝てないようだ。
私たちは毎朝5:15過ぎには食事を開始するということは、食事担当の方は1時間半前の3:45には起き朝食の準備に取り掛かっている。そして食事担当は5名のメンバーでこなしていることを知り、本当に頭が下がり感謝の気持ちで一杯。ありがとうございます。
【ある日の1日のメニューを紹介】
- 朝:ご飯 焼き物 和え物 LL牛乳(小) …937Kcal
- 昼:ご飯(カレーライス) 付け合わせレタス 野菜サラダ ボイルウインナー 花らっきょ 福神漬け(生) ゆで卵 LL牛乳(小)…1,653kcal
- 夕:ご飯 付け合わせレタス はさみ揚げ 団子汁 鰤の照焼 カルビ炒め…1,257Kcal
それにしてもカロリーが高すぎる、果たしてここまで必要なのだろうか? と思える。最終日にヘルスメーターに乗ったところ、これまで見たことのない数字に驚いた。美味しい美味しいと食べていたなら確かにこのカロリーでは太る訳だ。妙に納得!
住環境は狭い3段ベッドのスペースが自分の唯一の空間である。正座すると頭がぶつかる程の天井だが、シャワーもお湯が使え、洗濯もできる。途上国の地方のホテルではお湯が出ず水シャワーであったり、洗濯もできないなどの生活を考えると此方の生活の方が数段も良いように思える。
米軍マーシー病院船見学
6月26日(火)
3チームに分かれそれぞれ1時間の予定で見学、台風の影響か(?)生憎の土砂降りの雨のなか作業船でおすみからマーシーへ。帰りの揺れはさらに酷く時には悲鳴にも似た叫び声が聞かれる程であった。
マーシー病院船説明担当者より
全長284m(タイタニック号より20m長い、エンジンの大きさは同じ)タイタニックを知らない私にはICUや一般病棟等計1,000床の病院船と聞いた時の方がこの病院船は大きいと納得できた。12の手術室(現在手術中とのこと見学はできず)、小児・幼児の2病棟がありベッド数80床、中央滅菌材料室では、蒸気滅菌機は4機有り24時間稼働している。
診療サイトで治療・手術の必要な患者はヘリで搬送され入院となる。検査は緊急検査を含めて全て船内で可能、患者・職員を含め朝・昼・晩の3食7,500食を作っている(ということは少なくとも2,500人は船内にいる事になる)。医療廃棄物は分別し艦内で燃やしている、従って消防職員も勤務している。シャワーやトイレの排泄物は浄化を行い25マイル(1マイル=1.7km)先に廃棄している。
郵便局やジム(2施設)なども備えられており、病院船というよりまるで街として機能している。その大きさにただただ圧倒されるばかりだった。
米軍による防災訓練 Mass Casualty Triage に参加
6月27日(水)
フィリピンにきて米軍の防災訓練に参加できるとは夢にも思わなかった。昨日と同じく朝から雨降り、雨具を用意して訓練現場へ、訓練会場は以前開会式が開かれたNORTWEST SAMAR STATE UNIVERSITYで行われた。
会場に到着すると米軍がトリアージの準備に模擬患者役に外傷メイクを行っていた。私が「使っても良いか」と尋ねると「良い」という返事と同時に、我々チームのメンバーが「私にも傷つくってほしい」希望する、すると「私にも、私にも」と。早速私は2人の女性看護師の前腕に開放骨折と熱傷を作り始めた。パワーポイントによるトリアージについての講義そしてトリアージの実際訓練が開始された。私が作った傷病者役の彼女たちも模擬患者として参加した。
私自身講義等では新たな学びは無かったがトリアージタッグでは、1枚のタッグで時間ごとの変化が記載できるように工夫されていたことや記載項目が文字ではなく絵で表現されていた、例えば時間の表現が砂時計の絵で表現されていたり、黒の区分には十字のマークで書かれていたりと日本との国民性の違いがタッグにも表れていた。
午後からはヘリコプターによる傷病者搬送訓練、私たちは被災地から救急車搬送された患者(人形)をヘリコプターまで搬送する訓練に参加した。大型のヘリで離・発着する際プロペラの廻る風で飛ばされないように、重心を低くし耐えていた。災害発生から傷病者搬送までの一連の流れとしたデモンストレーションに、我々は楽しみながら訓練に参加させて頂いた。
朝の雨は会場に着く頃は止み、曇りに変わり湿度が高かったがカンカン照りでなくて訓練には幸いの天候であった。
フィリピン
医療活動サイト:Maraga小学校、Carayman小学校
此方の人々は一般的に身体は小さく痩せ細っている。その背景に栄養状態・衛生状況の悪いことが理解できる。
目立った疾患では高血圧・甲状腺肥大・皮膚疾患・粉瘤・ガングリオン・数年前から咳が止まらない結核疑いなどが多く、疾患は多種多様である。歯科では虫歯が多く、10代で永久歯の殆どを抜歯している人も珍しくない。血圧では200を超える人も珍しくなく、釣り上げた魚を即冷凍するなど適切な保存管理ができず、多量の塩を使い干物にして食べるこの食生活の影響が大きいのではないか。また、継続的に内服することができずに、「血圧が高いことはわかってますがお金が無いので薬を飲むことをやめました」という受診者も少なくない。
日本では、「若芽やヒジキを多く食べているので甲状腺肥大は少ない」とも言われている。此方もヨードを多く含む海産物を摂取している食生活だと思われるが、なぜこのように甲状腺肥大が多いのかその理由は分からない。また、我が国では新たな患者を見かけることが少なくなり年間1~2名位の発病とも言われる「ハンセン(瀬)病」、受診者の中に症状から「ハンセン病」ではないかと疑える受診者に驚く。下腿から足指にかけ壊死状態、右足の人差し指を失っている、最初は糖尿病性を疑ったが血糖値は140と高い値ではない、また、痛いという訴えもない。経験豊かな医師が「これはハンセン病ではないか」と指摘する。
受診者の中には「50年間医師に会ったことがなかった」と話す者もおり、元気で病気もせず医者・病院要らずだったとも思えない、やはりそれだけのお金が無いからなのかと想像する。
文化交流
日本の文化を伝える一つに「折り紙」がある。鶴・鳩・犬・猫・豚・ヨット・百合・手裏剣等々、毎日毎日沢山沢山折り、診療の合間や休憩中に子どもたちに渡している救命士さん(男性)の姿がとても印象的であった。きっとお家でも良いお父さんしているのだろう。。
子どもたちはその折り紙を手にするとにっこりと嬉しそうに笑う。この国の子どもたちはとてもひとなっつこく、いつもにこにこして笑顔を絶やさずにいる。ねだってくることもない…思わず此方もにっこり癒される。
貧しいから治安が悪いのか、治安が悪いから貧しいのか
わずかな情報だが、支援活動期間に日本語通訳のフィリピン女性から聞いたフィリピンについて少し記載する。
一様に生活水準は低く、厳しい、一家族の平均6~7人子供がいる、中には10代で母親になる女性もおり、ともかく生活のために働く人数を得るために子供が多い方よいという考え方である。学校教育より働き手として子どもを増やすことで、人口の増加がこの国をさらに貧しくしている。
学校卒業すると子供たちは働きに出る、その給料の6割~7割は家族に仕送りしている、その給料といってもそれ程多くは無い中での支送りである。地方にいると働く場が無い、少しでも収入をとマニラに出てくるもマニラでも職につけることは厳しく働く場所も見つからず、スラム街で生活をするようになる。
フィリピンの人口:9800万人(7107の島からなる群島国家、居住は国土の4割)
- 49%:月収(日本円で9,000~10,000円)、49%のうち30%の家庭に子どもは5から6人、カトリックなので避妊することはできないという。
- 30%は月収8万円くらい(中流家庭):子どもは2~3人、子どもの教育の為にと海外に出稼ぎに行く、母親不在が多くなり麻薬・妊娠等の非行に走る子どもが多くなる。
- 20%が裕福な家庭(上流家庭):メイドを雇い子どもの教育は全てメイドにまかせ、親は自分の生活を楽しむ。
カルバヨグ地域 157村 人口17万3千人 子ども約2,900人 人口の16.2%が0から6歳 11.2%が栄養不良状態(2011年現在)
11時過ぎまで朝ごはんも食べられずに待っている子どもたちが多く、今日を生きていければ良いと思って生活している。だからフィリピンでは食事を残す人はいない。
誘拐はビジネス
前述に続きさらに彼女が語るには、「この国では誘拐はビジネスです、手っ取り早くお金が入るから」と恐ろしいことを語った。「マニラに出て来ても働く所が無い。スラム街での生活、自分達家族のためにという気持ちが非常に強いこの国の人々は次第に、お金のためには人殺しを頼まれたら1000ペソで目をつぶって人殺しをする。また腎臓を5~6万ペソで売ったりしてお金を得ている」。
最後の味は激辛
29日
私は他のメンバーより一足先の帰国のため「帽振」という海自の儀式にのって見送って頂いた。船内にいる皆さん、総勢で甲板に立ち帽子を振りながら見送ってくれた光景は一生忘れることができない、先に帰ることが申し訳なく思いながら“ありがとうございました”と何度も繰り返し涙が溢れてきた。ホテルで一泊、レストランでの夕食にもうすでに海自のお食事が恋しくなる。
30日
6:50カルバヨグ空港からマニラに向かう予定であった。機内に案内され後は離陸を待つだけ、私は何時ものようにウトウトしていたところ、隣席の男性に声をかけられた。見ると乗客が降りはじめている。何か点検している様子を見ながら暫く待合室で待ったいたところ、機長に続いて乗務員が降りはじめると、、放送が入る。どうもこの飛行機は飛ばない(飛べない)ようである。
待合室はざわざわ…さぁーどうする、如何したらよいのか、まずは状況確認に事務室に尋ねたが、私の能力ではとっても聞き取れない英語であった。諦め同じ待合室内にいる乗客の3人に同じ質問をした。3人の中で私にゆっくりと分かりやすい英語で話してくれる人を探した(そう、これもトリアージの一種かもしれない)。
50歳代位の女性にマニラから乗り継いで東京まで帰ること話をすると女性はご主人に私の状況を説明し、その後はご主人が私に対応してくれるようになった。
彼は「マニラから代わりの飛行機が来て、多分12時位に出発できるかもしれない。多分ね。キャンセルして明日に変更するか、もう一つの飛行場があるからそちらへいくか」。その飛行場は来る時に利用した所、ここから陸路で5時間以上要した。そちらに行くには無理な話。
この空港から医療活動しているサイトは近い、戻り相談した方が良い。「日本チームの医療サイトがこの近くにあるのでそこまで行きたい、タクシーを呼んでほしい」と、この地でタクシーなんて無理だろうと思いながらもと話すと、彼から「PP12?」という質問が。「そうだ、看護師です」と話すと、彼は「では僕の車を出す、ドライバーに運転させます」と言って運転手を呼びはじめた。
私はとっても心配になった、車に、この彼の話に乗ってい良いのだろうか、私はたった一人である。もしかして誘拐はビジネスなど等の言葉がよぎった。日本人女性のガードの甘さ、自ら飛びこみ餌食となったとも言われかねない。もしここで何かあったらPP12として国の行事に参加していることで多くの人に迷惑をかけることに繋がる、自己責任、危機管理の甘さと批判されるだろう等々。どちらを選ぶか、しかし、いつまでも悩んでいいる時間はない。
彼を信じよう…と腹をくくった。待合室で待っている時、奥様のとっても優しいこころ使いに「なんと優しい人なんだろう」と思ったではないか…。
お願いをして車に乗り、無事に医療サイトに到着。良かったと思った瞬間だった。
再び自衛隊の方にお世話になり、通訳の方と空港に戻ることができた。そこで知ったことは、空港から車を出してくださった彼は、なんとこの国では将軍様、彼の奥さんは看護師さんだということだった。お偉いさんなのにちっとも偉そうにしなかった、とっても御親切な方との出会いであった。
結果的に14:05にマニラ空港に着陸、国際線(日本航空)第一ターミナルに着いたのは既に15:00(成田行きは14:25分発)空港を飛び立った時点でマニラより成田への乗り継ぎ便には乗れないだろうと事前に自衛隊の方が活動医療サイトよりマニラ日本大使館に連絡、マニラ市内のホテルを予約して下さっていた。日本大使官のお世話になり、豪華ホテルに宿泊することになった。
マニラ空港まで迎えに来て下さった日本大使館の方に、これまでの状況と将軍様のお話をしながら将軍様の名刺を渡すと、「〇〇氏でしたか、彼はこのPP12を企画したこの国トップの方ですよ。彼と一緒に活動場に行きましたよ」と。なんと世の中狭いのだろう…早速大使館の方は彼にメールを送ってくださった。成田行きに乗れずに今、マニラで一緒にいます」と…。
昨日まで本当に楽しい日々での活動であった。世の中そんなに甘くないと本日激辛のスパイスがたっぷりと振りかけられた。しかし、その辛いスパイスの時が過ぎさると後に残った味は思いのほか、人の暖かさ優しさの感じられるスパイス味であった。
心の中では、「まァーなんとかるさ、いつもなんとかなってきた」と自分自身に言い聞かせ余裕の気持ちを持ちながらも、「こうなった時に次の行動を考えではどうしたら良いのか」、と考えながら情報を得たりしてきた。全く知らない土地で一人さらに言葉の壁、街の乗り物自転車タクシー、頼れるものは自分自身と思いまながらも正直なところとても心細かった。
終わりに添えて
この活動のパートナシップへの参加は2度目である、2年前のPP10(2010年)カンボジア医療支援で参加した。
多くの人々に参加の機会を
NPOとしての参加チームは2団体であった。この事業に参加することに対し団体としての諸般の事情や思いなどがあろうかと考えられるが、多くの団体、または個人での参加されることを望みたい。また、今後も日本として参加することを続けてほしいとお願いをしたい。前述から防衛省の担当者の方には、さらなる広報活動をお願いしたい。
医療資器材の持参
簡単な医療資器材は日本人チームとして持参しても良いのではないか、例えば血圧計や体温計など全て米軍の物を借りて活動を行った。診療を円滑に進めるためにも、たいした荷物にもならないので、全て米軍の物で行うのではなく、日本人チームとして持参した方が良いと思う。
診療の合間に紙芝居的な保健指導の実践
活動サイトの小学校の教室に、「デング熱について」の予防や注意事項などの書かれた教材が置いてあった(紙芝居の様な)。派遣される国が分かった段階で、その国の特徴的な疾患や歯磨きの必要性や正しい歯磨きの仕方等々の健康教育を行って行くべきである。診療の待ち時間を利用して行うこともできる。全ての人々の健康を考え、実践することまずはプライマリーヘルスケアーの実践からである。その方法としては、住民が参加できる教育指導の機会を多く持つことが一番重要である。
途中帰国について
NGOとしてフィリピン・ベトナムの活動参加では、途中帰国することが許された。活動期間の情報を得た段階で、既に移動することができない予定が入っていることがある。私は終了2日前の帰国を許されたことで活動に参加することができた。厳しくされると活動希望者が減ることも懸念されるが、しかし、フィリピンの場合は私一人であったこともあり、途上国内でも一番貧困層の地域での活動場所から危機管理という点からだけではなく、そのほかにロジや経済的な負担も考え再検討は必要と思われる。
最後に、お世話になりました全ての皆様に心から感謝しお礼を申し上げます。