台風ボーファによりフィリピンに甚大な被害
2012年年12月4日、非常に強い台風ボーファ(以下ボーファとする)がフィリッピンのミンダナオ島を襲った。
ボーファは被災者620万人、死者・行方不明者1,800人以上を出し、家を失った人は97万人を超えている模様であった。この状況からNPO法人・人道医療支援会(HuMA)は支援活動を行うために初動活動調査隊を派遣した。
現在の被災地にはおよそ113カ所の避難所があり、下痢、皮膚病、上気道炎等の呼吸器疾患、眼病等が発生し、多くの避難住民が疾病で苦しんでいる状況にあることが判明した。
従って初動調査隊の最終報告を待たずに、本隊医療支援の申請と並行して行い1ヶ月に亘る医療支援活動をコラポステラ・バレー州の被災地域周辺において巡回診療として実施することになった。
私は上記内容をHuMA理事・会員メールにて情報を受け、なんとか被災地に行けないものかと日程調整を行い、2013年1月21日~28日までの第3次隊として活動が可能となった。
現地からの情報では、「こちらは豪雨&強風、よくこんなに空に水分があるもんだと地球の神秘を感じるほど。水圧で家が潰れるんじゃないかと思うほど。家の中で寝ていても水しぶきを感じるほど。」と情報が送られてきた。
今は雨季、雨の多いことでは半端じゃないらしく、長靴と合羽は必需品。そして暑さに耐えられるかどうか。私に某医師から「いくら気持が若くても現実は体力的に厳しい、確実に年齢は若さを過ぎているから、とにかく暑さに負けないことだとね」と暖かい言葉を受けた。
確かに今日本は真冬気温は5℃前後、フィリッピンは37℃位と何と30℃以上の気温差に正直なところちょっと心配であった。
いよいよ現地に向けて出発
21日9:30成田発、無事にマニラに着き国内線に乗り換え予定通りにDavao(ダバオ)に着いたのは午後3時過ぎ、空港にて3次隊で一緒に活動する医師の甲斐氏や迎えの現地スタッフにも会いホテルへ直行。確かに暑いのと湿度の高さに閉口する。
翌日22日朝5時にホテルを出発し陸路で被災地に向かった。この現地に着くまで6時間、猛スピード(?)を出し、悪路とさらに曲がりくねる道、とうとう私は車酔い。2度ほど車を止めてもらうことになった。やれやれ10:30に無事DavaoよりBaganga Kinablanganに到着。
第2次隊と合流
日本人2次隊チームの皆さんの顔を見た時ホットしてやっと着いたぁーと安堵した。
この村の人口は5441人、世帯数1500、台風による死者は22人、午後から診療活動に参加するが、ひどい雨。。雨が私たちを迎えてくれた“歓迎のうれし涙”かな…。
足に傷がある外来患者は治療後に水たまりの中をビーチサンダルでびちゃびちゃ音を立てて帰っていく…。蜂窩織炎の患者も発生しているというのに感染症が気になりながら患者の後ろ姿を見送る。
夕方宿泊施設に着くと、1部屋を3名の女性で生活することになった。
セミダブルベッドが2個並列にくっつけて置かれている。川の字に横になりDr.Faldasがひとつを使い、私は真ん中ではあるが一つのベッドを調整員の林さんと共にすることになった。林さんは端の窓際に寝ている、彼女が次の様に面白く説明されているのでその一文を紹介する。
気温38度、湿度82%。曇り時々雨、夜大雨。
窓ぎわで寝ていると、風でほのかにカーテンがふくらみ、水しぶきが感じられるのだが、良く考えたら一晩ミストを浴びて“きれいなお姉さん”状態だ。道理で最近肌がしっとりしてきたはずだ。
それにしても、洗濯すれば生乾きでカビくさくなるし、洗わないと汗くさいままだし、どちらがよりマシか、という残念な選択を迫られた日々を送っている。
活動の概要
1月24日 私、本日〇歳の誕生日を迎える
本日久しぶりの晴天、天候が私の誕生日を祝ってくれている。と心から思いちょっと幸せな気持ちになった。
以下はHuMAのHPで紹介されている活動概要を引用し私たちチームの活動を紹介する。
1月24日 Baganga地区Saoquegue村
今日はSaoquegue村、バガンガ湾を臨む高台にある集会所で診療を行った。この村の人口は2,959人、世帯数1,145、台風による死者数は8人。
本日はPRC(フィリピン赤十字)からNr5人の応援を得て、我々3人を含め全部で8人。毎日PRCに迎えに行くと飛び跳ねるように出てきてくれる。
PRCには、20代前半のナースと10代後半のナースエイド(看護助手の学生)が全部で50人ほどいるのだが、「HuMAと働くと楽しい、一緒に働きたい」と思ってくれている空気が伝わってきて、こちらまで嬉しくなる。彼らは被災者のはずなのに底抜けに明るく、私たちは彼らの元気に日々圧倒されている。
診療は、現地Nr3人で受付と問診、山崎Nrがバイタルチェック、甲斐Drが現地Nrの通訳で診察、林が調剤、現地Nrが服用量説明、という流れで行った。
Souquegue村でのHuMAによる訪問診療はこれで3回目となるが、今日は再診患者さんも多くみられた。前に受診した時のカルテ(処方箋)を持ってきてくれたりすると、嬉しいものである。
一診だったにもかかわらず、午前午後で合わせて155人が受診された。毎晩のICPミーティングで組織ごとの日々の裨益者を比較するのだが、スタッフ構成人員に比して受診人数の多いところがHuMAの特徴と言える。
1月26日 Baganga地区Campawan村
活動中の気温33度、湿度70%。曇り。
1次隊も訪問したCampawan村で再び診療を行うことになった。1次隊の言葉を借りれば、インディ・ジョーンズばりの行程である。
ICP(陸軍災害対策本部)のMortela中佐が、PRC(フィリピン赤十字)のヘルパーのために民間のジープを手配して下さったのだが、今朝その車がまだ到着していないことを知る。
残念ながら軍用ジープ1台で向かうしかない。PRCにて準備して待っていて下さるNr達を連れて行くことができなくなり、心苦しいことだった。しかし、頼まないうちから、ICPが3人の学生ボランティアを診療ヘルパーとして用意してくれた。どこまで HuMAのことを考えて下さるのだろう。
行程は以下のとおりである。まず、San Isidroの村はずれまで40分、私共のバンで行く。村はずれで陸軍のジープが5人の護衛兵士と共に待っているので、それに乗り換えて30分、途中で立派な川を渡る(橋ではなく、車で突っ込みジャブジャブ渡る。ちなみに1次隊は筏で渡って、岸に着く前にひっくり返ったという風の噂を耳にした)。
発展途上国では一家5人乗りなどの図を見て驚くことがあるが、やってみたら案外できるものである。一家5人乗りは子供を含むことが多いが、我々は大のオトナで平均4人乗りを軽く達成。
驚いたことに、軍用ジープで川を渡りきったところに、PRCのNr2人が待っていてくれた。先ほどお詫びして今日のヘルプをお断りしたばかりなのに、なんと親切なのだろう。軍用ジープを降りるところから加わろうと、こんなに遠い所まで自力で来て下さったのだった。一同感激する。
これほど苦労して辿り着いたとしても、果たして目的地には人が住んでいるのだろうかと不安になるような行程であった。
しかし、Campawan村中心部の、台風で屋根のなくなった教会には、我々の到着と同時にたくさんの村人がつめかけ、待合室にした教会の椅子がたちまち人々で埋まった。特に子供の数が多い。
バイクライドに備えて、いつも8箱持ち歩いている薬品ボックスを1つに集約する必要に迫られたのだが、頑張って子供用シロップをたくさん持ってきて良かった。
Campawan村の人口は2,304人、世帯数は752、この台風による死者は5人。
困難な行程なので早めに撤収すべく、昼休み抜きで一気に診ることにする。14時までに153人を診察。どんなに待合室があふれても、集中力を失わず丁寧に診る甲斐Drであった。
また、受付や薬局業務の合間に、待合室の人々に向けて山崎Nr齋藤Nr南嶋Nrが手作りの紙芝居を用いて衛生指導を行った。大人も含めて皆、輝く瞳で聞き入っており、反応が大変良かった。
ところで、2次隊がいた頃は日々豪雨に見舞われていたのだが、すっかり雨も上がり、日中は暑い日が続いている。
今日も何が起こるかわからない行程に備え、上下のレインコートを着こんで長靴を履き、築地の魚屋の奥さん仕様の姿で臨んだのだが、これが見事なサウナスーツと化し、大汗でびっしょり。
目に見えて日々ウエストが細くなり、ほそく笑んでいる。この機会を与えて下さって感謝でいっぱいである。
(以上HuMA活動概要から許可を受け一部引用)
最高のチームワーク
私がこれまでのHuMAの活動に参加して思うことは、いつも人間関係に恵まれて活動できること。
初めて国際協力を体験したメンバーも多かったが、よい学びに繋がったのではないだろうか、もちろん現地スタッフにも非常に恵まれ助けられ支援を受けての活動であった。
これは3次隊に至るまでの間にレールを敷いて来られた1次隊2次隊の力の上に私たちの活動に繋がったことは言うまでもない。感謝している。
次から次へと恩送りに繋がったこの活動は生きた活動であり、被災者の皆様から沢山の笑顔を受け、HuMAとして自慢の活動であったと自負している。
写真提供:林晴実さん、南嶋里佳さん