山﨑達枝 災害看護と私 Disaster Nursing

ハイチ地震後の医療支援活動報告(2010)

ハイチ地震

ハイチ地震は2010年1月12日16時53分(ハイチ時間、日本時間では13日6時53分)にハイチ共和国で発生したマグニチュード7.0の地震であった。この地震により多数の家が倒壊し、大勢の人々が建物の下敷きになり死者約31万人6千人と尊い命が失われ、避難者は150万人という報道は世界中の人々を震撼させた。

地震の規模の大きさに加えハイチの政情不安定に起因する社会基盤の脆弱さにより単一の地震災害としては、スマトラ島沖地震に匹敵する近年空前の大規模なものと言われている。

NPO法人災害看護支援機構では、発生から2ヶ月半後の3月30日より看護師4名・医師1名・通訳1名・総合調整1名の7名のメンバーと共にハイチに医療支援に向かった。

活動概要

活動期間

2010年3月30日(火)~4月8日(木)

活動場所

ハイチ共和国首都ポートプランスから西南30kmのレオガン

活動メンバー

NPO法人災害看護支援機構:山崎 達枝・小原 真理子・黒田 裕子・酒井 明子・上田 耕蔵/CODE海外災害救助市民センター:村井 雅清氏/通訳:ハイチの会 熊谷 雄一氏/現地カウンターパート:Cuauhtemoc氏(メキシコ)

活動の目的

  1. 被害状況、被災者の件状態とくらしの視点からの現状把握
  2. 医療ニーズのアセスメントと医療活動の実践
  3. 現地カウンターパートと協働し被災者の生活状況調査
  4. 現地看護師の二ーズアセスメント
  5. 今後の活動継続に伴うアセスメント
  6. ハイチ国看護協会の情報確認

支援団体

日本財団、CODE海外災害救助市民センター、株式会社ノルメカ・エイシア、神戸医療生活協同組合、神戸協同病院、日本災害看護学会

活動内容

3月30日(火)

18:00 成田空港よりAA168にてニューヨークに向け出発
20:30(現地時間)DAYS INNホテル着 メンバーとともに今後の活動に向けてミーティング  ハイチ国の現状説明を村井氏より受ける。ハイチの治安は良くないため護衛をつける。時間にはルーズである等

3月31日(水)

AA837にて 09:10ニューヨークからポルトープランスへ17:30着
市内で被災を受けた、大統領官邸、裁判所、議事堂、税務署、国連機関、大聖堂、教会、サッカー場、各避難所テント村等の見学

空港では大勢の人々が賑わう中に、機内からの荷物が投げ込まれ、その荷物と体格の大きな黒人の人々の人混み中に、小さな日本人が自分の荷物を探す姿は必死であった。「自分の荷物を探せたらラッキーと思え」と言われていたこともあり、とても心配していたが、日本から持参した全ての荷物が我々に無事に届いたのはかなりラッキーなことなのかも知れない。

空港を出るとCODEのCuauhtemoc氏と護衛の男性と会い市内に向かった。護衛の男性は身長190cm以上がっちりとして体格だけでも頼もしく思える。常に拳銃を携帯している。車中より市内を見学、7割以上の建物が倒壊している、道路上の瓦礫は車が走れる位は撤去されているが、建物は崩れたそのままの状態になっている。主要な大統領官邸や裁判所も半壊状態で行政機能はマヒしていることが安易に伺えた。他に病院・学校・スーパー・銀行・協会等も倒壊しており、生活基盤となるものがほとんど破壊されている。

私たちの宿泊先はHotel kinam、中の上位、1泊一人日本円にして6000円程、ハイチの人は絵が上手と言われているようにホテルに入るといたる所に絵が飾られていた。ホテルの前は、かつては公園だったが地震後はテント村となっている。黒ビニールで覆われたテントも多く、ホテルとの落差に胸が痛む。

4月1日(木)

8:00 Hotel kinam出発
ハイチは中南米で最も貧しい国と言われている。元々厳しい国家体制に地震発生と重なり被害がさらに大きくなった。地震の震源地はレオガン地域といわれている、本日はそのレオガン地域を見学した。首都のポルト・プランスとレオガンの違いは各国の支援は首都ポルト・プランスに入り、レオガンは被害が大きかったにも関わらず支援の手が届かなかった。従って私たちは支援が不十分であったレオガンで活動することにした。

9:30 避難所テント村着 Camp new hope ministers Mariani
テント内の被災者の健康状態、医療ニーズについて話し合い明日の活動を確認した。

フィラデルフィア孤児院見学・Hospital Cardinalleger病院見学
フィラデルフィア孤児院見学の時、子どもたちのお世話をしている方が、「どん底の時ほど笑おう、笑うのはただだから、笑って前を向いて歩いていこう」と子どもたちに話しているというお話を聞いた。子どもたちは両親もなく、厳しい生活だが子どもたちひとり一人の目は輝いている、明るい子どもたち。別れ際に有り難うを英語やフランス語や他国の言葉で歌い、そして最後に日本語「ありがとう」と。一日も早く幸せの日が来ますように。

4月2日(金)

日本から準備したカルテを100部コピーする。といってもコピー屋は街に一軒、スーパーで昼食を準備しマリアニに向かった。テント村に向かう途中に材木店等の前を通ると倒壊した建物から集めてきた材木・針金・鉄筋など、さらにトイレの便器や台所のシンク等も売られていた。全壊した建物からでも利用できるものは全て利用するようだ。

9:30 Marianiテント村到着
10:00 ミーティング
現地看護師(3名)と自己紹介、支援の目的、その後担当、診療について打ち合せを行った。3名の看護師は被災者で自宅は全壊、テント村で生活しているという。

  • ソフィア・ロゴーさん:看護師・シグノー結核病院勤務 問診担当
  • ジェズラー・ロゴーさん:看護助手・ソフィアさんの妹 受付担当
  • アントワン・ギレイさん:看護師・シグノー結核病院勤務 薬のセット及び外傷処置

11:00 診療開始
開始1時間後経過した時にハイチの青年医師エマニエル氏が医療チームに加わった。エマニエル医師には小児をお願いし日本の上田医師は成人を担当と2つに分かれた。

診療開始後、来院者の曜日と時間感覚が低下していることに気がついた。例えば「お子さんはいつから熱が高いの」と聞くと、母親は「月曜日から」と答える、「今日は金曜日なので今日で5日目?」と聞くと「月曜日から」としか答えない。お母さんには毎日が月曜日であった。小児の薬と思ったが私たちが日本から持参した薬には小児用が入ってなかった。大きな失敗であった。

17:30 診療終了 本日の外来者 53名

4月3日(土)

9:00  Marianiテント村到着 診療開始
17:00 診療終了 本日の外来者101名
結核・エイズ専門病院見学:Sanatorium de siguencau(サナトリウム ド シグリ)修道院見学

4月2・3日の約2日間で外来者数154名の診察治療を行ったことは大変意義のある活動であったと思う。初めて出会ったローカルスタッフとの協同活動から、活動国特有の疾病に対する経験や知識を得た。何よりも現地スタッフの協力・協働なくしてはここまでの活動に結びつかなかった。

4月4日(日)

13:45 AA896にて14:05村井・上田・小原が帰国のためニューヨークに向け出発
黒田・酒井・山崎はホテルにて診療・記録、活動記録のまとめ

4月5日(月)

11:00 Sanatorium de siguencau病院看護管理者との面談
日本より持参した衛生材料などを寄贈

15:00 テント内巡回
テント村診療所に約150名ほど訪れた。医療活動はスムーズに行えたと思う、しかし、テント内には診察に来れなかった人がいるのではないか、生活状況を把握するためにテント内を巡回した。

このテント内の生活状況はあまりにも悲惨であった。昼間と夜間の気温差、日中のテント内の温度は40度以上にもなると言う、「テント内は暑いでしょう」と問うと、「いいえ夜は涼しいですよ」と返ってきた。確かに夜間は気温差で、また、地面の上に寝ているから涼しいと語ったのかもしれない。

床が土の上で僅か6畳もない広さの中で所狭しと家族が横たわる。生活環境は劣悪である。テント内では貧血・脱水・衰弱・高血圧等で診察に来られない様な被災者が横たわっている。ある男性は右足下腿が大きく抉れて骨髄まで見えている。伝統的な治療を行っているというがその傷の中には無数の虫が動いている。目をそむけたくなるような傷の状態であった。

通訳の熊谷さん曰く、「ハイチには自殺する人はいません、来年の誕生日を迎えられるかどうかですから、生き抜くことに必死です、このような中で死を選ぶことなんてしません。」と語ってくれた。

4月6日(火)

AA896にて 14:05ニューヨークに向け黒田・酒井・山崎出発

多くの方々のご協力を得、短い期間であったが無事にハイチでの活動は終わり帰国に向けニューヨークに向かうことになった。護衛として付いてくださったガードマンはいつも私たちの行動を見守ってくださっていた。例えばお土産売り場で、女性たちは買い物に夢中になり、てんでんばらばらとなる。しかし振り返るとどの位置からでもガードマンがしっかりと私たちを見ていた。私たちには優しい眼差しであった。

4月7日(水)

AA167 11:35ニューヨークから成田に向け出発

4月8日(木)

18:15 日本へ帰国 成田着

所感

日本という豊かな生活環境から着いた地震被災国ハイチとは

ハイチ大地震から短期間で次から次へと自然災害の発生し、メディアからハイチ地震のニュースが流されることは少なくなった。貧困と言われているハイチに支援活動に行けないだろうかと願う気持ちが叶い、発生から2カ月半後に私たちは被災地に行くことができた。

「日本の裏側、随分遠い国に来たものだ」と感無量であった。ニューヨークの寒さから約3時半後にハイチ国際空港に降り立つと一挙に夏の暑さにかわった。

国際空港であるのに、離発着を知らせる電光掲示板が設置されてない。地震の被害から乗客の荷物を受け入れなどのシステムが稼働してない。人の手により乗客の大きなトランク等が人混みの中に投げ込まれる。「これが国際空港?」と目を疑い、西(南半球)の最貧国と言われる現状を垣間見えた気がする。

車窓から見る瓦礫の街、崩れた建物や瓦礫は取り除かれてなくそのままで放置されている。その瓦礫からはブロック内から細い芯棒が飛び出していた。これでは地震の影響で家が崩れても仕方がない。重機はわずか3台程度しか見ることはなかった。瓦礫が取り除かれてない状況が理解できた。

地震発生から2ヶ月を過ぎたという過程が見えない。あちらこちらで設営されている避難者用のテント村、避難生活するには厳しい過ぎるテント内であった。利用できる残った廃材を使って中央分離帯に建てられた貧しいトタン板の家と対照的に被害を逃れた立派な家と明らかな貧富の差。

被災した人々はその悲惨な街の中で日々生活を送っている。私たちが宿泊したホテルの前にも黒のビニール袋で覆った被災者の住むテント村があった。なぜか申し訳ない気持であった。

学びは被災地に、被災者の人々の中にある

入国の翌日には、活動場所も決まるということは非常に恵まれている。これは既に被災地で活動していた、NPO法人会員のクワテモック氏の力添えが大きい。

初日にこのテント内で活動している3名のハイチのボランティアの皆さんと今後の活動についての話し合いをもった。彼らが最後に「子どもたちの心のケアをどうしたら良いのかを教えてほしい」と質問された。私は、子どもたちが学校に行けるようにすること、学校に行くことで子ども同士遊ぶことや勉強すること、地震の時の様子を話したりすることがこころの表出に繋がる。またテント内で皆さんが子どもたちを集めて勉強を教えることやイベントを開催するなども良いのではないかと話した。

後にわかったことだが、学校は地震により全壊したと。私たちが活動したテント村も元々は学校であった。さらに、この国では生活そのものが厳しく教育にかけるお金がなく、学校に行ける子どもが少ないと言われている。この点を頭では理解しながらも心のケアの知識として得たことを語った。真剣にこの国の状況を理解した上でこの問題を考えていなかったのではと反省し新たな学びを得た。

青空診療所での私の担当は、受付、トリアージ部分と全体を統括するような立場で活動をした。診察希望して来た方に問診表に住所や氏名の記載を通訳を介して依頼したことから記載できない、書くことができないという事実を知った。まだ20歳代と思える女性が自分の名前を書けない、このことは一人でなく複数であり、さらに女性が多かった。高齢者ではなく若い女性であったことに私はこの国の厳しい背景を知りショックであった。

大多数の人々の食事回数は1日1回から2回。「食欲は?」と質問すると「食欲はあるけど食べるものがない」と。また、午後5時過ぎに一緒に活動したハイチのボランティア看護師に「これから帰るとお母さんが夕食を作って待っていてくれるのでしょう?」という問いに「夕食は食べません」と返ってきた。皆問に笑顔で答えてくれたが、笑顔であっただけに私の未熟さを感じさせられた。「これまでに何度も海外で活動してきたのに、活動してきたのに」と自分自身に無性に腹がたち皆さんに申し訳ない気持であった。

日本と異なる国(地域)で活動する時、その国水準に合わせて行うこと。政治経済、教育、保健医療、疾病構造等、その国の暮らし、生活水準に合わせ、あらゆるものを考慮した看護支援であること。私は頭の中で理解できている。しかし、活動するに先だって私は何を考えていたのだろう、いや何も考えないで活動を開始していたのではないだろうかと、この国に合わせた活動に切り替えがされてなかったことの反省であった。

ハイチの様子は、地震発生以前元々政治の腐敗、エイズやマラリア等の感染症問題、教育・医療の不備を抱えていた上に、今回の震災で本当に人々の生活が崩壊してしまった様に思える。2カ所の孤児院を訪問し子どもたちと会った。カナダからの支援で今はテント生活ができるようになったが、被災直後は住む家もなく、路上のごみの上に寝泊りをしていたという。しかし、悲しみの連鎖の中でありながらも明るさを失わない人たち、子どもたちの目の輝きに生きる、生き抜く力を感じられた。その姿に私はパワーを被災地の皆さんから頂いた。頭が下がる、そうしたメンタリティーは現代の日本人が失いかけているものなのか。

これまでの私の経験から「学びは被災地に、人々の中にある」と語り継ぎ続けている。被災者への看護を行う上でこれまでの文献には書かれてないもの、新しい文献はまさに被災地・被災者にある。私をここまで育ててくださったのは被災地であり、被災者の皆様であった。つまり、現場に行くことが大きな学びとなる。

リーダーとして

私は、今回の活動で「皆元気に日本に帰国できたならそれで今回の活動の目標は達成できたと評価できる」と決めていた。最初の挨拶に、「皆さん元気に忌憚のない意見交換を行い活動しそして怪我なく・病気なく元気に日本に帰れたら私はそれで良いと思います」と話した。リーダーとしてそれで「良し」とした。

なぜならメンバー全員がこの道のスペシャリストである。知識・技術全てにおいて私がものを申すことはない、初めて会ったローカルスタッフと30分の話し合いでそれぞれの責任と役割、診療所の設定が決められ、活動に入り、2日間で153名の診療を行うことができた。この事実がメンバーの力量を物語っている。私の期待以上に力量を発揮してくれた。

日本との気温差、過密なスケジュール、衛生環境の悪さ等の中で活動し、よい仕事ができたと誇れた顔をして元気に帰国できた。この結果が、今回のミッションは成功に終わり未熟ながらも、皆さんのお力を借りてリーダーとしての貴重な経験を頂きながら役割は果たせたと思う。

(2012年5月掲載)
Copyright© Tatsue YAMAZAKI