プロローグ
2011年3月11日午後2時46分。私は東京文京区の白山付近にいました。
その2日前の3月9日には、同年2月22日にニュージーランドで発生したクライストチャーチ地震で被災し同地で入院治療を受けていた日本人の学生さんが帰国できるまで回復したので、私も付き添いとして一緒に帰国し、入院先となる都内の病院まで同行しました。
2日後、私は学生さんのお見舞いから帰る途中で揺れに遭遇します。長く大きな揺れに、これは国内のどこかで発生した巨大な地震だと直感し、私はすぐに「現地に行かなければ」と思いました。
同時に一人で入院している学生さんのことが気ががり、きっと怖い思いをしているだろうと何度も電話をしましたが繋がりませんでした(翌日やっと電話がつながり元気な声を聞いてほっとしました)。
結局その日は6時間歩いて帰宅し、翌日被災地である福島県看護協会に最初に到着し、支援活動を開始しました。
あれから3年が過ぎましたが、私自身は「もう3年過ぎたの」という感じです。
2014年3月、東日本大震災発生から3年目を迎えた東北の被災地、岩手・宮城・福島県内の病院訪問を中心に10日~16日まで1週間の予定で向かいました。
今回の訪問について
今回の訪問目的
今回の訪問目的は主に次の2点です。
- 被災地病院看護管理者の方とお会いし「お元気ですか」「お変わりないですか」…再会の約束を果たこと
- 被災看護管理者のネットワークへの呼びかけについての確認と意見をいただくこと
日程
3月10日
東京から盛岡・釜石へ
釜石のぞみ病院・釜石市役所・海鮮料理中村屋
…宿泊先:釜石市内の岩手大学宿泊施設
3月11日
国立病院機構釜石病院・県立釜石病院・医療法人楽山会せいてつ記念病院 ・医療法人財団 仁医会 釜石のぞみ病院・山田町知的障害者更生施設はまなす学園
午後2時から岩手県山田町と合同の追悼式に参加
…宿泊先:釜石市内の岩手大学宿泊施設
3月12日
午前:旧大槌町役場の見学・大槌役場訪問・城山公園見学
午後:岩手県立大船渡病院・岩手県県立高田病院・医療法人勝久会 介護老人保健施設 松原苑
…宿泊先:高田市広田半島のいつもお世話になっている佐々木さん宅
3月13日
9:30佐々木さん御夫妻にお礼を述べ宮城県へ向かう、気仙沼~南三陸町へ
南三陸町公立志津川病院・石巻赤十字病院
…宿泊先:石巻市内ホテル
3月14日
医療法人社団仁明会斎藤病院 ・市立石巻病院開設準備室・医療法人仙石病院 ・公益財団法人 宮城厚生協会坂総合病院
16:00無事に仙台駅に到着し無傷でレンタカーを返却、仙台駅にて出版社日総研の方と打ち合わせ
…宿泊先:新幹線で福島に移動し宿泊
3月15日
6:30福島駅東口集合・田村市都路地区で実施するよろず健康相談に参加
…宿泊先:福島市内
3月16日
16:00自宅に帰還
あれから3年目の被災地
始発の東北新幹線に乗り、予定通りに8:45に盛岡到着。
仙台を過ぎると眩しい程に一面真っ白でした。2日間ご一緒させていただく、岩手大学地域防災研究センターの越野修三さんの「昨晩積もる程に雪が降ったからね」とのお迎えの言葉を受け、手配して下さった地域防災センターの車に乗車。
あの3年前も寒く小雪が舞い散っていました。あの日と同じと思うと言葉少なくなります。地域防災センターの職員2人を加えたと私たち4名は、破滅的な被害を受けた釜石市に到着。
まず最初に、三陸が誇るアワビ・イクラ・ウニなど多くの食材を使った三陸海宝漬で有名な中村屋さんを訪問。
「なぜ中村屋さんに寄るの?」と疑問に思う方もおられるでしょう。私は中村屋さんのいくら丼が大好きで、平成10年頃から東京池袋より夜行バスに乗り釜石まで食べに来ていたという程、思いを寄せるお店なのです。釜石に来た時には必ず中村屋さんに立ち寄ることにしています。
従業員の方には仮設住宅に住んでいる人もいます。津波前はお店でお食事が出来たのが今はお土産用のみです。お会いしたかった奥様とは生憎お会いできませんでしたが、「お元気ですよ」というお店の方のお話に私はほっとして、「また来ますね」と再会の思いをお伝えしました。
3月11日、一人レンタカーを走らせ病院を訪問。岩手県と山田町合同の追悼式にも参加させていただきました。会場に向かう途中に、自宅跡と思われる場所で、大切な家族を亡くされたご家族の方が集まり手を合わせている姿が目に入りました。
それぞれのご家族にはそれぞれの思い出があり、一人一人に物語があったはずです。一瞬にして大切な家族、思い出、財産が失い、それでも前を向いて歩いて来られたのですね。
ご家族で追悼している姿を目にするたび、目頭が熱くなりました。
3月12日の午前中は皆さんと一緒に旧大槌町役場の見学です。当時のままの姿でした。あまりにも痛々しいその姿に「この建物を見るのは辛い」というご家族の方の気持ちが、痛いほど分かりました。
3年過ぎた被災地の様子を見学しましたが、復興している様子はあまり感じられません。まだまだ先は長く厳しいと思われました。
午後は皆さんとお別れし、私は一人レンタカーで移動です。いつものように国道45号線を大船渡~陸前高田に向かって走行。目の前を雪が降り続いています。
「気温が0℃を超えているからから積もらないよ」と地元の方が私を安心させようと言ってくださいましたが、雪降りしきる中を運転することは初めてのこと。その上カーブの多い下り坂なので緊張し、ハンドルにしがみつくように運転しました。
高田に着く頃には雪もやみ、ホッとしましたが身体はコチコチで肩も凝りました。
お会いした看護管理職の方たちは、「やっと看護職員にも目を向けられるようになりました」「地域医療に向けて取り組んでいます」「看護職が不足していることが課題です」「ずーとここで仕事をしよう思えるような、暖かい人間関係を育む事が私のやるべき仕事です」「住民の方から信頼されるケアを提供していきたいです」「私はスタッフを守ります、スタッフは患者を守ります」…そんなふうに涙ながらに語ってくださいました。
こうしてお話をしていると、まだ不安定な状態になってしまう方もおられました。
私はレンタカーを使い、短時間でも良いから看護管理者の皆さんにお会いしお話ができたらと思い、まわれる範囲で訪問活動を続けています。
私の訪問を待っていて下さる人がいる限り私はこの活動を続けていこうと思っています。
被災看護管理者のネットワークへの呼びかけについて
私はいま、広域災害で被災した看護管理職のみなさまを支援する「被災看護管理職支援ネットワーク」への参加を広く呼びかけています。
しかし、私が打診したネットワークへ参加について、お会いした看護管理者の方々からご諒解を頂けたわけではありませんでした。
「申し訳ありませんが退職した後は孫とゆっくりしたいです」「看護協会の指示ですとお断りできませんが、個人の立ち上げでならお断りしたいです」など…そのお気持ちも、当然のことだと私は思います。
3.11発生当時から、看護管理者の方々は辛い境遇の中で職務を遂行しなければなりませんでした。その精神的ストレスは多大なものでありました。
必死に走り続けてきたのですから、本当にゆっくりして頂きたいと思います。
「年度末のこの時期、異動の発表があり私は某県立病院に転勤なんです」…転勤ならその異動先をお尋ねすればまたお会いできますね。
「私と部長は今年で定年。家庭菜園を楽しみにしているの」…月日の過ぎ去ることで当時の管理職の方がいなくなるのは寂しいものですね。例えご家庭に入っても、またお会いしたいものです。
そんな中、A看護部長さんから「私は心のお礼がしたいですので、ネットワークの立ち上げに賛同します」という言葉をいただけたのは嬉しかったです。
阪神淡路大震災、新潟中越・中越沖地震、石川県能登半島地震…。それぞれ看護管理者は辛く孤独に戦ってきました。
誰もが、そっと背中を支えてあげる人が必要だったと感じながら、でもそれが東日本大地震に生かされてなかったのはやはり問題であり、解決しなければならないことだと考えます。
それにはやはり、ネットワークの構築が大切だと思うのです。