山﨑達枝 災害看護と私 Disaster Nursing

東日本大震災支援活動体験記(2011)

2011年3月11日午後2時46分、私は後楽園付近のブティックで洋服を眺めている時に強い揺れを感じた。それは横揺のようで揺れの時間がとても長く、震源地は日本のどこかではないかと思われた。

急いで自宅へ戻ろうと思ったが公共機関は止まったまま、しばらくするとまた強い揺れが始まった。この揺れも大きく、歩道には建物の中にいた市民が飛び出し、歩いていた人は悲鳴をあげ、パニック状態となっていた。

交通機関は全面止まり、回復は無理、自宅まで歩くしかないと決め、まずコンビニに寄りトイレを借り、おにぎりといなりずしを各3個、500mlのペットボトル3本にチョコレート・おせんべいを購入し歩き始めた。

携帯のナビで自宅までの道を確認また交番に立ち寄っては道を尋ねながらひたすら自宅に向かって歩いた。その間家族や友人に連絡するが繋がらない、家族は・家はどうなっているのか不安との闘いでもあった。

自宅に着いたのが21時過ぎ、その間約6時間休憩もせずにただひたすら歩いていたが疲れも感じなかった(後でわかったことだが、私は遠回りして歩いたようだ。)

自宅に着くとテレビから映る被災地の状況は、まるで映画のワンシーンのようであった。 2001年9月11日に発生した「アメリカ同時多発テロ事件」が映画のワンシーンの様に思われた時と同じく、とっても信じがたくもこれが現実であった。

三陸沖を震源とするマグニチュード9という観測史上世界4番目の規模となる東日本大震災の発生、テレビに釘付けになったと同時に、私は、どうしたら被災地に行けるのか明日は被災地へと考えていた。

東日本大震災被災地に向かう

翌日の12日に日本災害看護学会先遣隊として2名のメンバーと新潟県から横断し被災地福島県に入った、まず最初に福島県看護協会を訪ねた。これまで6年以上福島県看護協会から「災害看護研修」にお声をかけて頂き、研修を行ってきたことで何よりも先に訪ねたかった。

無事に到着はしたが、アクセスが非常に悪く、途中、土砂崩れや通行止めもあり、さらに緊急車両しか入れないという制約もあった。警察より「緊急車両のステッカーがあるとよい。医療班として要請を受けたという一筆があるとよい」と助言をうけ、福島県看護協会長のお力添えにより、私たち先遣隊車両は緊急車両として認可を得ることができた。

福島県看護協会では、施設や会員の安否確認をFAXで行っていたがライフラインが途絶えている事で確認がなかなか進まないことと、さらに困っていたことは、原発の問題であった。会長さんとの話から原子力についての情報提供を含めた専門家による支援が必要であると思われた。 

宮城県内の多くの避難所での人々の生活は、これが先進国と言われている日本の現実なのかと疑うほどであった。被災者の方々が体育館内や廊下・階段に家族単位で毛布等にくるまり、また、ストーブの廻りには数人が囲み会話も少なく暖を取っていた。

昨日は小さなおにぎり一個であったと、食事も思うように得られず、日本国憲法25条1項「全ての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と憲法で保障されている最低限の生活すら確保されてなかった。それらを逸脱する状況に陥るのが自然災害であることを知らされた。

被災者の一人が私たちに「仙台空港に行ってきた?」の質問に、「またです」と応えるとさらに「1000年に一度の災害だ、まだなら見てきた方よい、道も良く分からない位、さらに夕方になると危険だから早めにいった方が良い。また、行方不明の家族が探しに出かけているが夕方になったら帰ってくると避難所は混雑してくるから早く出かけなさい」と。辛い被災者の方々が私たちの身を案じて下さっていることに、逆に私たちが支えられ感謝の気持ちとともに申し訳ない気持であった。

アドバスに従い私たちは仙台空港に向かった。想像をはるかに超え、なまなましい現実を目の前にしたとき私は声も出なかった。適切な言葉も浮かばずに、ただただ立ちすくむだけ、そして自然が牙をむき出した時に人間は脆い、弱いものだと痛感した。

これまで多くの災害現場に訪れ救援活動も行ってきた、でもこれほどの惨状は見たことがなかった。町がない、船が3階建ての屋上のさらに車の上に乗って居る。数えきれない流された車の台数、これまで築き上げた財産思い出が全て流されている。これが現実であることが信じられなかった。

被災地にも桜が咲き始めた

その後も何度か被災地を訪れ、4月末大型連休開始早々に被災地に訪れると北国にもやっと桜が咲き満開であった。

例年より遅いと言われたが桜のトンネルの下を通り見上げた時、なぜか自然と涙があふれた。私は、これまで国内外を問わず数多く被災地に向かい医療活動してきた経験がある、多少の事では驚かないと思っていた。しかし、東日本大震災はあまりにも厳しい光景に、なすすべもなく人間の無力さに私の心はめげたのだと思う。

顔で笑って心で泣いて

岩手県内の某避難所では、明るく大きな声で笑っている人たちのグループがあった。その輪に近づくと女性が「私たち津波でなにもかにも無くなったとは思えないでしょう」と。

また、某病院の看護師の皆さんが「呆け防止体操」といってニギニギ棒(袋に玄米300g詰め込んだ袋)両手に持ちながら体操を行っている姿は実に楽しそうで、その姿からは家族や自宅を失った被災者であることは想像はできない。

昨年3月にハイチ地震被災地に活動に行った際、牧師さんが孤児になった子どもたちに教えているという言葉を思い出した。「貧しい時、どん底の時ほど笑おう、笑うのはただだから、そして笑いながら前を向いて歩いて行こう」と語った言葉である。

「全て失ったら後は笑うしか残ってないじゃないですか」と避難所の女性が語った。顔で笑って心で泣いて、それでも前を向いて歩いて行こう、国が違っても辛い時には同じ思いなのだろう。

福島・宮城・岩手被災地病院訪問

私は、今でも3県沿岸の極限られた病院施設訪問を行っている。

当時の事を語る管理職の方々は入院患者・患者家族・職員・組織の事を優先的に考え毅然として最前線で指示をしていた。しかし話をしているうちにA看護部長さんからは「病院に戻る、病院に帰る」と話された。

自宅に戻るが一般的、どうしてそのような表現になるのか、自宅は安住の場ではなくなったのか。多くの方は自施設の部長室に長期間泊りこみで活動し殆ど休んでないということである、時間の経過と共に自然と部長室のソファが落ち着くようになったのだろうか。

管理職は肩を張らずに辛い時には弱音を吐ける、聞いてくれる人がいたのだろうか、思いきり泣けるが場があったのだろうか、管理者にはスタッフと違い勤務を替わってくれる人がいないが管理職自ら休暇の取得をずることは、自身の心身の健康を守るだけでなく、他の職員のためにも必要なことであり、地域の管理者が集まり本音で語り合える場が必要である。

「 仕事をしている時には忘れていられる、だから仕事に没頭していたい、Aさんの家はお子さんと2人、私はまだ一人だから、母一人だから子どもは元気だし人前では悲しめないです。」この言葉に隠されているのは亡くなったという言葉と他者と比較しての遠慮である。

「行方不明から死体が見つかったから見つからない人もいるので良かったです。」

どうして、どうしてよいのでしょう、大切なたった一人のお母さんを失っているのに、彼女達は本当に思いっきり泣ける場があったのだろうか、廻りに遠慮して静かに泣いていたのではないか。一生癒されることのない傷を抱えている看護職員の皆様に、私にできることはないだろうかと考えた。

今でも私は病院を訪問し、「辛かったら我慢しなくても良いんだよ、語れるなら語り、泣きたいなら安心してここで思いきって泣いてもいいんですよ」と職員の語りあえる場を大切にしている。もちろん中には話したくない人もいる。これも当然なこと、私は押し付けにならないように気を配いながら行っている。

非日常が日常の日々

何度も被災地を訪れて思ったのは、一瞬で失われた日常を取り戻すことがいかに大変かということである。当然当たり前の生活がどれ程大切なことだったのか、生き抜くために一個のおにぎりの一粒のお米がいかに被災地では貴重だったことか。

おにぎり一個といえども粗末に扱ってはいけないということは理屈では誰もがわかっている。しかしそれを実感することは現代社会ではあまりないように思える。食事をしたり、談笑したり、仕事が終わり安住できる自宅に戻り、一見なんともないように思える日々の暮らし、この暮らしが変わらないことが生きているということである。

ある日突然、非日常が日常となり悲劇の連鎖の日々、その当たり前のことが当たり前ではくなることに強い刺激を受けた。このことを被災地で実感することになり、それを風化させてはいけない、私のできることで語りついで行こう。と心に誓った。

現場に学びがある

私は何度も被災地を訪れ、現場で実際に支援活動も行い、被災者の皆さんから話を聞く中で様々なことに振り返りの機会を得た。

私達看護職は災害時にどれだけ専門性を発揮できるかが問われる職業である。また、災害看護とは、現場には医療器材等なにもない中で多岐にわたり知識・技術・創造性が重要である。

日々の臨床で患者さんの状態をモニターでしか見ていなければ、何もない災害時にいった何ができるか、普段から患者さんを看て、触れて、正常・異常を感じられなければ災害時に専門性は発揮できない。

これまで災害看護について考え、語ってきたあるべき姿が、今回の震災においても間違っていないことを実感することもできた。また新たに現場に来たからこそ勉強になったことも多かった。

おわりに

この東日本大震災はわが国の歴史に大きく記される大災害であったと同時に、医療・看護に携わる者にとっては、阪神・淡路大震災、新潟中越地震などの過去の大きな災害がそうであったように、今後の災害医療(看護)のあり方を見直す大きな機会となった。

このたびの東日本大震災の被災された皆様に心からお見舞いを申し上げます。亡くなられた方々にご冥福をお祈りいたします。

(2012年5月掲載)
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