私は、あしなが育英会が主催するサマーキャンプの第1回から第8回まで、保健担当看護師として毎回参加させて頂きました。
そこで多くの遺児らと出会い、その出会いから貴重な体験を得ましたので、皆さまにお伝えします。
あしながサマーキャンプ
関わることになったきっかけ
あしなが育英会主催の第1回サマーキャンプは2000年8月に開催されました。
その前年、コロンビア・トルコ・台湾で大きな地震災害が立て続けて発生しました。
これに「国が違っても両親を失う事は寂しいこと。子どもたちに何かできることはないか」と、阪神・淡路大震災で被災し両親を失った神戸の震災遺児らが“恩返し運動”を始め、街頭などで募った義援金を被災国に届けました。
この結びつきを人的交流に広げようと提案があり、翌2000年に神戸で外国の震災遺児ら(コソボの紛争遺児らも招待しました)をまじえた交流会が開催されたのです。
知人の医師からこの活動を紹介され、「保健ボランティアとして参加してもらえないか」という要請をうけました。
私は悩むことなく「お引き受けします」とお返事をし、その後もあしなが育英会との関わりが現在まで続いています。
子どもたちとの触れ合い
翌2001年から毎年、夏に各国から両親を失った遺児らが日本に来るようになりました。
2004年10月に発生した新潟県中越地震の後では、冬の季節1月に各国から雪国新潟にやってきました。
雪を知らず見た事もない南国の遺児らは、雪で作った“かまくら”に入ったりと大はしゃぎで遊んでいましたが、そのうちに寒さに勝てずに泣き出す遺児らもいました。
夏のキャンプでは海に入れると大喜び。その中に地雷で足を失った義足の少年がいました。
片足膝下からが切断されている彼も、ためらう事もなく海パン(短パン)で海に入りました。その明るい姿に私は感動しました。
ディズニーランドにも行きましたが、その日は生憎とても冷たい雨が降る最悪の天候でした。
イランから来た2人のムスリムの女の子は、黒のヘジャーブに全身を被っています。
その姿に振り向く周囲の人の眼も気にせず、冷たい雨の中を寒さに震えながら合羽姿で元気よく楽しんで「日本に来て良かった、良かった」と笑顔でした。
冥利に尽きる
広島の原爆ドームを見学した際には、参加した遺児らに感想を語ってもらいました。
アメリカ・ニューヨークからきた9・11事件で遺児になった少年は、次の様に語りました。
「日本に来て良かったことが2つある。1つは、戦争のことを勉強した時、先生(教師)だけでなく周りの大人からも、戦争だから強いものが勝つ、アメリカは正しかったと教えられてきた。もし日本に来なかったらこの現実を知ることは無かったと思う。
今はアメリカが正かったかどうかわからなくなった。相手の立場を知る事は物事を考えるには大切なことだと分かった。
もう1つは、アメリカにいたら特にイラクの人とは友だちになれなかったと思う。言葉も文化も違うイラクの方とお友達になれたことが嬉しい」。
イラク側の通訳がニューヨークの彼の言葉を訳してイラクから来た少年に伝えると、なんとイラクの少年2人が立ち上がって彼に一礼をしました。
ニューヨークの少年もこの一礼には驚いたようでしたが、すぐににこやかな笑顔となりました。
この光景はこの活動に関わらせて頂いた者だけが知ることができる、まさに“冥利に尽きる”一件でした。
私は感動し思わず涙が出ました。もちろん私だけではなく他の方も感動されていました。
日本に着いた時にはお互いに目も合わせなかった彼ら。何もかも離れての行動でしたが、徐々に話をするようになりました。
そしてこの一件からは後には、肩を組んで歩いている姿を目にしました。なんて素敵な光景でしょうか!
私は彼らの背中を見ながら「ありがとう」と言葉をかけました。
ウガンダの子どもたち
カイヤさんとビアレさんとの出会い
カイヤ・ジョフリーさんとルタヤ・ビアレさんの2人に出会ったのは、2005年の第6回サマーキャンプに参加した時です。
彼ら以外にウガンダ共和国から男女8人の子どもたちがやってきました。
その中の一人、ビアレさんは優しい目立ちたがり屋の男の子でした。
河口湖畔でキャンプしている時、台湾から来た女の子の洋服が風に流され隣家のベランダに落ちてしまったようです。
そしてその様子を見ていたビアレさんがベランダに飛んだところ、着地した際に古釘が刺さってしまいました。
私は毎日、彼に付き添い病院へ行きました。破傷風の感染を心配をしたのですが、何も無く良かったです。
そんなビアレさんとは対照的に、カイヤさんは目立たず静かに過ごしている少年でした。
あしなが育英会からお小遣いをもらい、100円ショップでお買い物にも行きました。
ショップから出てきたウガンダの子どもたちの手にあった物は、鉛筆や消しゴムなどの文房具。とてもうれしそうに抱えていました。
浅草の浅草寺を見学した日はとても暑く、汗だくになりました。
他国の子どもたちは、もらったおこづかいで水やジュースを買って飲んでいましたが、ウガンダの子どもたちはお金は使わずに「授業料の足しにする」と…。
私は思わず、5個300円のモナカのアイスクリームを買って渡すと、一人の女の子が食べずにいました。
「どうしたの?食べないの?」と聞くと彼女は泣きながら、「妹に食べさせてあげたい、私だけが食べて…」と言うのでした。
すでに溶けてきているので食べるように促すと、やっと美味しそうに食べ始めました。こんな風にウガンダの子どもたちと一緒に行動しているうちウガンダに行ってみたいという思いが、私の中に生まれてきました。
ウガンダへ
2005年8月、私は友人とウガンダに行くことになりました。
ウガンダの首都カンパラから少し離れたワキソ県のナンサナという町があります。
この町に、あしなが育英会活動拠点の一つとして、あしながウガンダレインボーハウスがあります。ここではHIV / AIDs遺児たちの教育支援と心のケアを行っています。
あしながウガンダレインボーハウスに着き、日本で出会ったカイラさん、ビアレさんと再会しました。彼らも再会を大変喜んでくれました。
「貧しさから逃れるには勉強しかない」と子どもに勉強させるため、朝から晩まで休みなく働き通しのお母さんと、「夢は必ず叶う」と諦めずに勉強する子どもたち。
勉強する意欲は人一倍、しかし現実はそう甘くはないのです。
働きたくとも働く所がない。沢山の兄弟がいる。すると学校に行かせたくても学費が出せない。次第に子どもたちは学校から遠ざかっていくことになります。
学校見学
現地の学校を見学しました。
皆同じ1つの教室、つまり複数学級です。1・2年生は机も椅子もなく地べたで勉強です。3・4年生は椅子のみ、5・6年生は机と椅子が使えるようになります。
黒板とは名ばかりで、壁を黒く塗っただけ、でこぼこで何かを書けるような黒板ではありません。
日本の学校を思うとなんと酷い学校と思うことでしょう。しかし、ここに通って来ている子どもたちは、とっても幸せそうなのです。私たちの学校訪問を明るく迎えて下さり、「幸せなら手をたたこう」を日本語で歌ってくれました。
その学校は雨が降ると休校になります。その理由は、窓はありましたがガラスがないので教室内に雨が入り込むからです。
とは言え、天気が良いなら皆が学校に行けるというわけでもないのです。
天気が良ければ「水を汲んで来い」と言いつけられ、水を求めて何時間もかけて山道を歩き、そして水を持ってまた何時間もかけ家に戻る。家に戻った時には既に学校には行けない時間となっています。
「学校に行けること」そのものが、何よりも幸せなことなんですね。現実を見てちょっと沈んだ私の気持ちを救ってくれたのは、何よりも子どもたちが見せる笑顔でした。
日本と比較してはいけない。子どもたちは置かれた環境の中で精一杯生きている。学校に来られて楽しいと全身で表現して歌っている彼らに、心から沢山の拍手をしました。
そして、私にできることはないかと考えました。
学費支援の決断
もし僅かな私の支援で、学費の心配もなく、水汲みもさせられず、子どもたちが安心して毎日学校に行けるのなら…。
あしながウガンダの責任者の方と相談を重ね、最も厳しい環境にいる5人の子どもたちに、私が学費支援を行うことになりました。
私が高校卒業まで支援をすること、もし私に何かアクシデントがあった時には私の子どもが後を継いで支援することを約束しました。
その条件として、次の約束を守ってもらうことを、ウガンダあしながの責任者、子どもたちとその父兄に伝えました。
あしながウガンダの担当者の方へ
- 学校に支払う時には、必ずあしながの方が現金を持参し、子どもとその父兄の眼の前で学校の担当者に必要経費を渡すこと
- 父兄や子どもには絶対に現金を渡さないこと
- 支援金は子どもの学費のみに使用すること
父兄の方に
- 家の都合で学校を休ませないこと
- 支援金は学校に行くための学費であり他には使用しないこと
- 子どもが学校に行けるようにすること
子どもたちへ
- 学校には休まずいくこと(体調が思わしくない時は別)
- 年間を通して成績がひたすら下降傾向にならないこと
一人でも多くの子どもたちに支援したいと考え、全ての金額を支援するのではなく、父母の方も働きそれでも足りない不足額を支援することにしました。
お母さんも本当によく頑張って働いたと思います。
再びウガンダへ
日本のお母さん山ちゃん
2006年9月、長男と一緒に再びウガンダに向かいました。
子どもたちは私を「日本のお母さん山ちゃん」と呼び、笑顔で迎えて下さいました。
今回は、学費支援している彼らの自宅に泊めていただけることになりました。
カイラさんとビアレさん宅には長男がお世話になり、私はセノガ・バイヤスさん宅にお世話になりました(セノガさんの弟センゲンド・ジョセフさんに学費支援)。
セノガさん宅では夕食の時間になると、突然一人の子どもが、半畳くらいの玄関にあるそれぞれの靴を軒下に移動し、そのまま居間となりました。
卓上コンロで食事の準備をするジョセフさん。準備といっても(失礼ながら)おかずは一品。子どもたちは皆役割があり、それぞれテキパキと動き食事が始まります。
準備にはそれほどかからず、そして食べるにもそれほど時間はかかりません。
お腹が満たされたのかもわからないうちに「ごちそうさま」となり、鍋を洗う者、玄関先を掃き掃除し軒下から靴を持って玄関先に並べる者と、子どもたちはまた担当に動き始めます。
アルコールランプの灯り
電気はついていません。何とアルコールランプの生活です…。そのアルコールランプの光で一生懸命に勉強しているのです。
当時、この家の長女リタさんは早稲田大学に留学していました。
彼女も、弟たちの面倒見ながらこのアルコールランプの光を手元に持ってきて一生懸命勉強したのだと思います。
お母さんは「夜は警備の仕事をしている」という事で、「夕方から夜は居ないからここで寝て下さい」と言い残し仕事に向かいました。
すっかり私はその言葉を信じてベッドを借りました。
肌寒く冷えたことで目が覚め、明け方に外に出てみると、なんとお母さんが軒下で寝ていました…。
お母さんはずーとここで横になっていたのだろうか? 私にはお仕事に行くと話されたが…。このことはあえて確認はしませんでした。というよりできませんでした。
それぞれお世話になったお家に、宿泊代わりお礼として、お米やパンなどの食料品や文房具を渡して感謝の気持ちを表しました。
ラカイ県サマニャ
ラカイ県サマニャという地域に行った際、ある3人兄弟に会いました。
その長男は、どうも右手をかばっている様子。お母さんに尋ねると、「肩をはずした(脱臼)みたい。でもお金がないから病院に行っていない」との返事。
また「小児麻痺・てんかん」という病気もある様で、「弟より下の学年で勉強している」という。
「何とか病院に連れて行って頂きたい、CTなど設備のある病院で検査を受けてほしい」とあしながウガンダの責任者にお願いをしました。
もちろん、お金で全てのことが解決できるとは思っていません。しかし今ここで私が出来ることは、やはり病院受診への資金援助しかできない。
現地で実習中のあしなが研修生にご理解とご協力をいただき、彼を病院に連れて行って頂きました。
その後のことは、現地スタッフの方から「やはり病気がちの様でローカルな医療を受けている」との知らせをいただきました。
私と長男が訪問した当時の家は、木の葉で作られており雨漏りしてましたが、地域のボランティアの手と海外の支援団体のサポートで、土壁・トタン屋根に変わっていましたというお話も聞けました。
日本で再会
小学校から支援してきた5人の子どもたちのうち、学校があまり好きでないと休みがちになってしまった子には、残念ながら途中で支援を切り、他の子どもを支援するといったこともありました。
やがて2人の少年が高校を卒業して日本の大学に合格しました。
一発で合格できた訳ではありません。日本やアメリカの他大学を受験して失敗し、悔しい思いをしながらも彼らは諦めず、頑張ってとうとう合格通知を受け取る事ができたのです。
カイヤさんが同志社大学に、ビアレさんが明治大学に合格しました。
二人は2014年の春に来日。再会した時には、本当に我が子が合格したと同じ様に嬉しかったです。
初めてサマーキャンプで会った時には、私の身長と同じか低いくらいでした。
しかし今は見上げるようになり、月日の流れを感じました。同時に、彼らが人に気配りのできる優しい青年に成長していたことが判り、とっても嬉しかったです。
一生懸命働いて子どもを育ててきたお母さんに感謝する優しい気持ちが、ちょっとした会話の中でも感じられました。
卒業する日まで4年間、ウガンダにいるお母さんに代わりしっかりと日本のお母さん山ちゃん…その役割を果たせたら私はとても幸せです。
彼らの努力が実を結び、こうして日本で会えた事。私も幸せいただきました。「ありがとう」――。
私の活動を知り、私の娘もあしながウガンダより女の子を紹介していただきました。
「私が大学を卒業できたのも、多くの皆さんのお力を借りたおかげ。今度は私が少しでもお役に立ちたい。男の子以上に女の子の方がもっと勉強したくてもできないだろうから、女の子を支援したい」。
中央:カイヤ・ジョフリーさん
右側:セノガ・パイアスさん
資料
最後に資料として、2005年に採択された「世界16か国遺児共同宣言」を掲載します。
その後の子どもたち
ジョセフさんがアメリカの大学に合格
2014年5月、私が支援しているウガンダの子どもたちの中の一人で、まだ進路が確定していなかったパイアスさんの弟ジョセフさんが、アメリカの大学に合格したとの知らせがありました。
ヴィラノバ大学という全米屈指の理系の優秀な大学で工学を勉強する予定だそうです。
「ぎりぎりまで時間はかかりましたが、夢だった工学の大学へ進学、勉強を続けられることになりました」という嬉しいお知らせを受け、涙が出ました…。
ジョセフさんは6月中旬には渡米する予定でいるそうです。
私が2回目の訪問の際に宿泊させていただきました時は、まだ幼く玄関先の靴を軒下に移動させていたその彼が、ついに大きな夢を叶えました。
日本で会えないことは残念だけど、でも嬉しいです…。
ジョセフさんから手紙が届きました
2014年5月末、そのジョセフさんから手紙が届きました。
ジョセフさんとあしながのスタッフが一緒にいた時、大学合格の知らせが届いたそうです。
「その後ジョセフさんは『山﨑さんにお礼の手紙を書こう』と言って、一番先に山﨑さんに手紙を書き始めました」というお話を聞かせて頂きました。
嬉しくてまた自然と涙が…涙が……。
だから、ウガンダから私の手元にこんなに早く届いたのですね…。
その手紙をご紹介します。
- センゲンド・ジョセフさんからの手紙(PDF)
支援している他の子どもたちからも手紙が届いていますが、今回はジョセフさんの手紙のみとします。
「お母さんは字を書けないので、私が代筆します」とか、「学校に一年間行けないでいたので」とか…。
日本では義務教育が当り前ですが、ウガンダの子たちの学校に行けることの幸せが書かれていました。