岩手沿岸北三陸被災地へ

2013年8月、千葉の自宅で友人数名と定例になっているバーべキュー会を行った際に、「秋になったらどこかに行きましょうか」と言う会話から、「東日本大震災で被災し復旧した三陸鉄道に乗りたい」ということになった。

6名の日程が合う10月12日より14日まで、岩手県沿岸の宮古から久慈を訪ねることに決まった。そして月日の流れは早くやってきた。

初日の10月12日は東京発6:00、朝一番の新幹線で盛岡へ。県北バスに乗り換え宮古へ向かい、さらに本日最後の目的地「田老」には昼過ぎ無事到着した。

私はこれまで、岩手の被災地には数えきれない程来ており、田老の被災状況も何度も耳にしてたが、宮古より北に来たことがなかった。

初めて来た田老は想像以上であった。あれから2年7カ月が過ぎ、今は一見平穏を取り戻したようにも見えるが、それは自宅が津波で流され、人が町に居ないからであろう。

世界最強の防波堤も住民を守れなかった

世界最強と言われた防波堤――“日本にある万里の長城”とまで言われ、国内外からも絶賛されていたX字の防波堤。

長さ2,600m、高さ10m。建築に45年の歳月を要した町自慢の防波堤で、田老は防災の街と言われた。45年も要したのに、なんと津波では一瞬で丸のみ破壊された。自然とは恐ろしい程の力があることに驚いた。

田老は「津波太郎(田老)」の異名を付けられるほど古くから津波被害が多く、江戸時代初期の1611年に起きた慶長三陸地震津波で村がほとんど全滅したとの記録がある。

1896年(明治29年)の明治三陸津波では、県の記録によると田老村(当時)の345戸が一軒残らず流され、人口2248人中83%に当たる1867人が死亡したとある。生存者は出漁中の漁民や山仕事をしていた者がほとんどであった。

また、1933年(昭和8年)の昭和三陸津波による田老村の被害は、559戸中500戸が流失し、死亡・行方不明者数は人口2,773人中911人(32%)、一家全滅66戸と、またしても三陸沿岸の村々の中で死者数、死亡率ともに最悪であったとネット上で紹介されている。

高さ10mの防波堤の内側からは、海でなにが発生しているのか、全く見当がつかない。当時もまさかを想像できなかったと察する。

この高さを越えて、まさか津波が来るとは信じられない。住民が安心していたと言うことがに理解できる。

田老町観光ホテルを見学し、同ホテルの社長が当時の状況をホテル6階からビデオカメラに収めたという。その映像を見ながら語り部の方から話を聞いた。

photo たろう観光ホテル
photo ホテル内の壊れたエレベーター

恐怖の中での撮影であったと思う。ホテルに津波が到来したとき、カメラは天井を映していた。社長は倒れ、「その時の事は全く覚えてない」という。

DVDを見ると、過去の災害を教訓にした一人の高齢の女性が、リュックサックを背負って高台に避難して助かっている。高齢の女性は、足もO脚でスムーズに歩けたとは思えないが、過去の教訓を誰よりも忠実に活かしていると思えた。

photo たろう観光ホテル前の家もなくなり、歩く人の姿も見られない
photo 佐羽根(さばね)駅で下車し「悠々亭」へ

またぎ料理の店「悠々亭」で獣肉を堪能

夕食は“またぎ料理”。 またぎ料理とは、山中の狩猟によって得た獣肉を素材に使った料理だ。三陸鉄道の佐羽根駅近くある、またぎ料理の店「悠々亭」に向かった。

途中出会った宮古の方に「マタギ料理を頂きに行きます」と話をしても「知らない」と返事が返ってきた。県内はおろか、日本国内でも珍しい料理(らしい)。

熊肉や熊汁(おかわり自由)完食、「熊の胆汁は身体に良いから」と勧められ飲んでみた。飲めない程ではないが、苦いの一言、“良薬は口に苦し”かな?

山菜やキノコなど、身近な素材を活かした地元の料理に感謝しながら堪能。

夜は宮古のビジネスホテル泊。

photo 右上=熊の刺身(つまがキャベツ) 左下=熊の胆汁、身体に良いらしいがちょっと苦い
photo 囲炉裏を囲んで炭で焼く川魚

田野畑被災地へ

翌日の朝食の美味しいこと、新鮮なお野菜と煮物、お魚。バイキングだったのでおかわり自由、朝から健康そのもの。友人も皆よく食べ、やっぱり健康そのもの。

この日、私たちは久慈に向かった。

田の畑駅で下車し、予約していた語り部の方と被災地域を歩きながら当時の様子をうかがった。写真でもあるように、被災前の街の姿と津波に流されている街と被災後の今の街の違いにただ驚くばかり。

photo 被災前の田野畑
photo 田野畑の現在

この地域は地震発生から津波までは多少の時間があったという。住民は階段を上り山中にある避難地域に逃げた。が、それでも不安になりさらに山を登ったと言う。

しかし登ったと言うその山の勾配は、70度はあると思えるほど急である。高齢者がこの山を登ったとは信じられない程。斜面が網で覆われていたので、そこに手足をかけて避難したことがわかるが、登れたとは当時はそれほど恐怖であったのだと思える。

「津波もおさまり、降りようと思った時に、逆に恐怖で降りれなくなった」という程の急勾配であった。

道路のコンクリートにも、家が流されて来た時に出来た跡や壁に津波の高さを表わす汚れ跡が、今でも残っている。

photo 津波到来直後の田野畑
photo 勾配のきつい斜面の網に手や足をかけて登った

新山根温泉 べっぴんの湯

夜は「べっぴんの湯」につかり、のんびりとした。

新山根は東北一の強アルカリ湯でPH10.8という山間の温泉である。

確かに湯につかると肌がすべすべになると感じられた。一日の疲れをとるのはやはりお風呂、のんびりと温泉に入れるのは贅沢、久しぶりに自分自身へのご褒美としてリフレッシュできた。

露天風呂に入っていると一人の女性が加わり2人となった。話してみると、陸前高田からご主人といらしたとのこと、今は避難所生活で、自宅とお姑さんを津波で亡くしたという。

「お姑さんと私はとっても仲が良く、具合が悪くなったら、その時は仕事を辞めて私が面倒みるからねと話していました。それもできなくなって、私の方が随分長く泣いていました。

主人の方が立ち直りが早く、気持ちを切り替えるにも仮設ではゆっくりできないから、たまには温泉にでも行って前に向いて行こう、ということでここに来たんですよ」と話された。

お名前も聞きませんでしたが、早く御自宅でのんびりとした生活が送れますように…。

被災地以外に観光をしなかった訳ではなく、浄土ヶ浜・龍泉洞・琥珀博物館・あまちゃんのロケ地小袖浜などの観光地で買い物をしたりとしっかりと観光も楽しんだ。

ちょっと紅葉には早かったが天候に恵まれ、優しい方との出会いに感謝の3日間であった。

続く気象災害と、忘れてはならない東日本大震災

一瞬にしてあらゆる建物が破壊され、多くの大切な命が失われる自然災害。東日本大震災以降も、今世界各地で水害や竜巻が発生している。

気象災害では、地球温暖化によってより大量の雨が降ると言われている。「この先、災害の数は少なくなることはないだろう」と専門家は話す。

次から次へと発生する災害の多さに、東日本大震災を忘れがちになる。が、絶対に忘れてはならない。風化させてはならないと強く思う。

(2013年11月掲載)
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