山﨑達枝 災害看護と私 Disaster Nursing

女性自身「シリーズ人間」掲載記事

はじめに

第39回東京都医療功労賞をいただいた折、雑誌「女性自身」の「シリーズ人間」に取り上げていただけました。厚意により原稿の転載許可がいただけましたので、以下に掲載いたします。

シリーズ人間「助かる命があったら 私は飛んでいきます!」

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標高2千メートルを越える山岳地帯に、乾いた風が吹き抜けていた。1991年、イランの最北端の国境の町・西アゼルバイジャン州オシナビエ。

当時39歳だった山崎達枝さん(59)は、湾岸戦争支援のため、国際緊急救助隊の看護師として5月20日、現地へ入った。

2連の大型テントで作った野戦病院には、簡易手術室とトイレがあるだけだったが、治療が始まると、クルド難民たちが続々とやってきた。

そんななか、山崎さんは、足を引きずるようにしてやってきた青年に目を見張る。裸足の左親指がパンパンに腫れていた。ひょうそう(手足指の感染症)だった。

治療の前に、まず、患部を清潔にしなければならない。彼女は薪でお湯を沸かし、バケツで青年の足を丁寧に洗った。びっしりとこびりついた垢は、お湯に浸けると面白いようにはがれたが、垢はそのまま彼女の手にもこびりついていく。その様子を見て、青年が申し訳なさそうな表情を浮かべると、山崎さんはひときわ明るい顔で微笑んだ。釣られるように青年も笑う。

「なぜか私は少しも汚いとは思わなかったんです。彼の笑顔を見ていたら、それまで忘れていた看護の楽しさを思い出させてもらったと言うか」

青年に足を拭くようタオルを渡し、治療の準備をしている間に、彼は姿を消していた。

「ひょうそうの治療はこれからだったのに……。でも、彼にとっては、私が足を素手で洗ってあげた時点で、治ったも同然だったんでしょう。

私は彼から改めて看護の原点を教わったように思いました。ただ、寄り添って足を洗ってあげるだけでいい。肩に手を乗せて話を聞くだけでいい。そんな看護の喜びを思い出したんです」

山崎さんの大きな目が、クルクルと動いて輝いた。

90年6月、イラン地震時の難民救助に派遣されたのを皮切りに、91年の湾岸戦争、95年、阪神淡路大震災、96年、バングラデシュの竜巻被害、04年、新潟県中越地震、05年、インドネシア・スマトラ沖地震、08年、中国四川大地震、10年、ハイチ大地震と、山崎さんは国内外を問わず、災害の現場へと駆けつけた。

どこも劣悪な環境だった。湾岸戦争時の難民キャンプ・テント村は、テント内のいたるところに糞尿が垂れ流されていた。

四川では、瓦礫が積み重なる街のあちこちに、遺体がゴロゴロと横たわっていた。

「現場では五感にきます。まず、匂い。遺体がそこらじゅうに転がって、その匂いが崩壊した家屋の生活臭と混ざり合い、感覚がマヒします」

黒コゲの幼い子供が運び込まれてきたこともある。

「やけどで皮膚がひきつり、目が閉じない。耳も半分ない。とても助からない状態でした。災害の現場では、自分の限界を感じることも多いんです」

それでも、山崎さんは力強くこう話す。

「できる限り現場へ行きたい。なぜなら、現場はいちばんの学びの場ですから」

山崎さんは52年1月24日、千葉県八街市で生まれた。9人きょうだいの末っ子で、父親からは特に可愛がられた。

その父が肝臓を悪くして入院し、かいがいしく働く姿を見て「看護師になりたい」と、決めたのは小学校1年のときだった。

地元の高校を卒業後、東京の北里高等看護学校へ。看護学生のとき、8歳年上の征二さん(67)とスキーで知り合い、75年に結婚。

すぐに長男・弘幸さん(35)が生まれ、79年に次男・吉史さん(32)、80年、長女・めぐみさん(30)が生まれたが、その間も、山崎さんは夜勤も含めフルタイムで働いた。

「子供たちは3人とも生まれてすぐから保育園です。当時は『おたがいさま』で、看護師同士で協力し合うのが当たり前。主人が休めるときは、仲間の子も一緒に面倒をみたりしていました」

夫の母が長野から出てきて、子どもたちの面倒をみてくれることも多かった。

「おばあちゃんは優しい人で、残り物で器用におやきを作ったり。逆に、私は年末年始もお節を作りたくないから、仕事をする(笑)。そんな私を、おばあちゃんも主人も責めないで、助けてくれました」

仕事一途の山崎さんに苦言を呈したのは、家族ではなく、教師だった。

「お母さんは仕事とお子さん、どっちを選ぶんですか?」
「どちらも選びます。あの、先生も働いていますよね」
悔しくて、嫌味を言うと、女教師はこう切り返した。
「私は夜、家にいます。お母さんは、月3分の1は夜、いないそうじゃありませんか」
さすがにショックだったが、仕事は辞めなかった。

「私は、家を出たら独身のつもりで仕事をしました。母でも妻でもない。一人の女性が仕事をする意識で、家を出たら家族のことは考えません」

当時は職場で“妻”や“母”の顔を見せるとプロ意識がないと言われたものだ。手術室の看護師になったときも、婦長からこう言われた。

「手術室に子持ちの看護師はいらない。子どもが熱を出すたびに突然、こられなくなるのがオチよ」

なぜ、婦長に嫌味を言われてまで手術室をやりたかったのか? 山崎さんは首を傾げた。そして、考えた末にこんなエピソードを話してくれた。

5年前のことだ。チューリヒからのJAL機内で急病人が出て、山崎さんが対応することになった。喘息発作で酸素の手当てはしたが、できれば点滴をしたい。ところが、チーフパーサーに止められた。

「看護師免許では、点滴は許可できません」

山崎さんは食い下がった。

「私が責任をとります。一筆書いてもいいですから。早くしないと患者さんが……」

それでも許可できないと言われ、機転をきかせた。別の機に乗っていた医師と電話をつないでもらい、処置を認めてもらったのである。

「私としては、目の前で苦しんでいる人を、とにかく何とかしてあげたかったんです」

自ら罰せられることも辞さないほどの「助けたい」という思いの強さ。それが彼女を突き動かしていた。

手術室看護師としても優秀だった彼女が、さらに海外支援を思い立った理由はなんだろう。その問いに、山崎さんは考え込み、そして言った。

「誰でも仕事をしていると、壁にぶつかるときってありません? 見えない壁です。ふと、これでいいのかなって。あのころの私がそうでした」

経験を積み、手術室でのスキルが上がると、決められた時間どおりに手術がこなせるようになる。

「言い換えると、慣れて、機械的に手術ができてしまうというか。仕事が機械的に感じられるようになったんですね。きっと、人間が見えなくなっていたんでしょうね」

山崎さんは自問自答した。
「看護ってなんだろう?」
答えはすぐに見つかった。

「もっと人間的な仕事がしたい。もっと困っている患者さん近くへ行きたい」

勤務していた病院の感染症の医師に相談し、国際緊急援助隊(JDR)のことを知る。

彼女は再び走り出した。ようやくJDRに登録ができた90年、イランで大規模な地震が発生する。山崎さんはいても立ってもいられなくなり、自ら志願の電話を入れた。

「私に行かせてください」

6月22日、イラン入り。当時は直行便がなく、ドイツ経由で32時間もかかる。機内で彼女は一人、焦燥感にさいなまれていた。

「この32時間の間にも、現地のガレキの下で苦しんでいる人がいるかと思うと、もう、いたたまれなくて」

現地ではレスキュー隊と一緒に、テント生活をしながらの活動になると考え、ジーンズにキャラバンシューズといういで立ちだった。

「ところが、私はある程度、設備が整った医療施設でオペに従事することになりました。達成感はいまひとつ(笑)。キャラバンシューズはどうするんだ? と思ったり」

そのとき同行していた海外医療支援の第一人者・山本保博先生(68、現・東京臨海病院院長)はこう話す。

「海外の現場での日本の看護師の素晴らしさは、創意工夫。それを体現しているのが山崎さんです。イラン支援のとき、手術に必要な細い糸が現地になかった。すると、彼女は太い糸をほぐし、理想的な細さの糸を作ってくれたんです」

臨機応変で細やかな仕事ぶりが認められ、翌91年、再び支援要請が来る。それが冒頭の湾岸戦争難民救済だった。

あるとき、80歳を超えた腰のまがった老父が、息子に手を引かれてやってきた。不衛生な環境で悪化した肛門周囲の腫瘍だった。手術後は、しだいに痛みが消え、腰のまがりもとれ、笑顔をみせてくれるようにもなった。

治療最終日、老父は医師から完治のお墨付きをもらうと立ち上がり、いきなり山崎さんの手の甲にキスをした。

「キスは挨拶程度のものだろうと考えていましたが、その後、イスラム教徒の、まして年老いた男性が外国人女性にキスをするなどあり得ない。最大限の感謝の気持ちなんだと、大使館で聞いて……」

エネルギッシュに話していた彼女の瞳に、涙が溜まる。

テント仕立ての野営病院では、山崎さんの手術室看護士としてのスキルが存分に発揮できたわけではない。クルド語がわからない彼女にできたのは、紙に絵を書き、身振り手振りで、感染の恐ろしさを伝えることだけだった。それさえ、きちんと伝わったのか定かでない。それでも、老父は最大の思いをこめて、感謝のキスをしてくれたのだ。

「あのとき私はようやく、ナイチンゲールが言った『看護の原点』の意味がはっきり理解できたんです。医療を施すだけが看護ではない。彼女は、クリミア戦争で、清潔な治療環境を整え、より人間らしい療養環境作りに努力して、兵士の死亡率を40%から2%まで減らしました。これこそが看護の原点なんです。

私も医療が届かない人のために、看護の仕事をしたい。それが、原点を気づかせてくれたイランの老父へのお返しになるとも思いました」

以後、海外支援だけでなく、国内の災害にも目を向ける。災害看護ナースの誕生だった。

95年1月17日朝、阪神淡路大震災をテレビ映像を見て、山崎さんは婦長に言った。

「神戸に行かせてください」

婦長は反対だった。夜勤のスケジュールが崩れるからだ。仲間の看護師の応援もあって、渋々、神戸行きを了承した婦長は最後にこう言った。

「あなたみたいな人が東京都にいることが災害です」

記憶に新しい阪神淡路大震災のときでさえ、災害看護への理解は、婦長クラスでもその程度。しかし、彼女には必要とされている確信があった。

「ケガをした人は医療施設で治療ができますが、避難所にいる人はどうでしょう。お年寄りや持病を抱えた人もいます。見た目は健康そうでも、皆、生命ギリギリのショックやストレスを受けている。そんな人たちと向き合い、体と心のケアをする看護師が必要なんです」

実際、医療施設で治療を受ける人は日に日に減っていくのに対し、避難所で体調を崩す人は増えていく一方だ。

神戸に入って2日目、ドクターカーで、ある診療所へ行くと、30代の男性と出会った。手の甲に小さなカットバンを貼っている。 声をかけると男性は顔をあげ、ポツリと言った。

「女房と子ども3人を失いました」

男性は実に淡々と、冷静に、話し始めた。

「家族で寝ていて、すぐ隣にいた妻と子どもたちがタンスの下敷きになりました。3人の息子の区別がつかず、パジャマの柄でようやくわかった。30㎝ズレていたら僕も一緒に逝けたかもしれません」

山崎さんは言葉を失った。男性の肩に、手を置くことしかできなかった。その後、家族の死を語った男性は、PTSDの乖離症状だと知った。

「ただ聞いてあげる。その手の温かみの大切さ。そんなことを伝えていくことも私の仕事なのだと思いました」

新潟中越地震でも大切なことを教わった。

「風呂桶ごとズドンと持ち上げられる恐怖がわかるのか。災害の怖さを、亡くなった人の数や倒壊した建物の数で、比較しないでもらいたい」

被災者の体や心の傷に大小はない。災害看護師として学ぶことはたくさんあった。

「だから、私は現場にこだわりたい。現場からはいつも大切な何かが見えてくる」

06年秋、山崎さんは33年務めた都立病院を退職し、災害救助に関心のある仲間と4人で、NPO法人災害看護支援機構を立ち上げた。

「そのころ私は若い看護師を派遣する立場になっていました。でも、やっぱり自分が現場に行きたいんです(笑)」

汚水にまみれる被災地でも、下痢ひとつしない丈夫な体が、いちばんの自慢だ。

「私は基本、現地のものを食べても平気です。パンツなんて前後表裏で着れば、1枚で4日持ちますよ」

パワフルな山崎さんの活動はしだいに認知され、理解されるようになってきた。

これまでに2度、天皇皇后両陛下にも拝謁した。陛下に
「言葉はどうされていますか」
と尋ねられると、その場でパタパタと鶏の真似をして
「ボディー・ランゲージです」
と、答えたという。

そして、気がつけば59歳。3人の子どもたちは、立派に、勝手に、成人していた。

「いい母親、いい妻でなかったのに、本当にうちの子どもたちはグレもしないで……」

山崎さんは申し訳なさそうにそう言った。

長男は現在、実家で暮らしだが、レコード会社勤務の次男は一人暮らし。長女は23歳のとき、山崎さんより年上の男性と結婚して、家を出た。

家族はお母さんをどう思っているのか。家族にも話を聞きたいと申し出ると、山崎さんはおずおずと言った。

「まことに申し訳ないのですが、家族全員に話を聞いてもらいたいんです。誰かのコメントが載らなくて、寂しい思いをさせるのは私が辛いですから。お願いできますか」

山崎さんにこれまで不満をぶちまけたのは唯一、長女のめぐみさんだけだった。めぐみさんが大学受験を控えたころだ。

「子どものころ、私に熱があっても患者さんがいるからと、病院へ行ったよね。私はお母さんにいてほしかった。寂しかった。お兄ちゃんたちも、同じ気持ちだったと思うよ」

山崎さんは、長男の弘幸さんが盲腸のときも病院を離れられず、腹膜炎寸前にさせ、外科の先生に叱られていた。

その話を打ち明ける山崎さんの目は真っ赤だった。
「私は母親失格です」

弘幸さんも盲腸のことはよく覚えていた。

「ただ、そのときは中学生だったので、母親が手術に立ち合ったことのほうが恥ずかしくてイヤでしたね(笑)。
この1月、母が医療功労賞を受賞したときは、本当に久しぶりに家族が集まりました。
災害看護は今まであまり評価されませんでしたし、表にも出なかった。それが世の中に認められたというのは家族としても誇らしいです」

実は、弘幸さんだけでなく、家族全員が、会うなり丁寧に頭を下げてこう言った。

「母(妻)のことを雑誌で取り上げていただいてありがとうございます」

誰に認められなくても、がむしゃらに働く山崎さんの40年を理解し、応援してきたのは、やはり家族なのだ。

次男・吉史さんはこう話す。

「小学校のとき、学校中の水道の蛇口を隠したり、図工準備室に絵の具をまいたり。ボクはたしかにやんちゃでした。母が担任に呼ばれて『愛情が足りない』と言われたというのは、ずいぶん後になって知ったことです。
淋しさからやんちゃした?いや、逆です。高校のとき、やんちゃがすぎて喧嘩で入院しましたが、母が呼ばれ、仕事を中断させてしまった。それが本当に申し訳なかった。もし、担任教師に言われて母が仕事を辞めたりしたら、そのほうがきっと、僕のトラウマになっていたでしょうね」

ご主人の征二さんは見るからに優しそうな人だった。

「夫としては、淋しさとも違うな。よその自分たち世代の夫婦を見ると、そろそろ夫婦で旅行に、という時期でしょう。うちはそれはないんです。4~5年前、何を思ったか、彼女が『たまにはお父さんをどこかに連れてってあげよう』と、家族でタイへ行ったんですが、彼女は疲れきっていて、飛行機のなかでもホテルでも眠ってばかり。だから、逆に、申し訳なくてね」

つい先日まで、フィンランドへオーロラを観に行っていた征二さん。しかし、山崎さんは夫の初めての1人旅の詳細を知らず、アラスカへ行ったと思っていた。

「NPOを作ったときも彼女は事後報告。海外へ行くときもそう。信頼しているから? 違う違う。彼女は止めても止まらない(笑)」

完璧なすれ違い夫婦だが、妻を語る征二さんの口調は優しく、温かだった。

末っ子のめぐみさんは、母親を冷静に分析していた。

「うちは一人一人が個性的で、自立していて、そんな5人が家族という箱のなかに入って、それぞれがマイペースで生活しているという感じでした。
自然に自立心が身について、今の私があるのはあの母がいたからです。反面教師の分も含めて、感謝しています」

NPO立ち上げのとき、山崎さんの背中を押したのは、めぐみさんだ。

「母ほど愚直な人はいません。不器用そのもの。看護の仕事のためなら、すべてを切り捨てられる。だって、濁った川の水で頭を洗うところへ自分でお金を払って行くんですよ。
母親としては、お世辞にも及第点とは言えませんが、人間として最高の人が母親だったということですね」

娘から母親への最大の賛辞を、家族の思いを、涙もろい山崎さんはきっと目を真っ赤にして読むのだろう。

その涙を拭けばまた、家族に黙って被災現場へ向かい、看護とは何かを問い、学び続けるに違いない。

「日本が生んだ平成のナイチンゲール」。本誌は山崎さんをそう呼びたい。

『女性自身』2011年2月22日号
シリーズ人間「助かる命があったら 私は飛んでいきます!」

取材/堀ノ内雅一 文/川上典子 撮影/高野博

(2012年9月掲載)
Copyright© Tatsue YAMAZAKI