山﨑達枝 災害看護と私 Disaster Nursing

南三陸病院へ入院患者の移転支援活動(2015)

2011年3月11日(金)14時46分、東日本大震災発生。

海からの距離わずか400メートルの平地に建っていた宮城県南三陸町の公立志津川病院は、高さ16mを超える津波により入院患者107人のうち72人が死亡・行方不明となり、職員では看護師と看護助手計3人も波にのまれました。

病院は東棟(4階)と西棟(5階)の2棟。津波は4階まで達しました。

岩手・宮城県沿岸の6病院が津波にのまれ全壊しています。

その中で志津川病院は2015年12月14日、南三陸病院・総合ケアセンター南三陸と名を改め、他の病院施設よりいち早く開院しました。

そこで山﨑絆塾では、入院患者移転の手伝いを看護部長に申し出、会員に支援ボランティアを募集したところ、遠く関西方面からも申し出があり計24名が集まりました。

当日は午前6時半に石巻市内のホテルへ集合、貸し切ったマイクロバスに乗り込み、米山市の入院先の病院に向け出発。

入院患者一人ずつ、地元の救急車や自衛隊の車で、南三陸病院の看護師と共に付き添い新たな南三陸病院まで搬送しました。

入院患者22名、新病院に移動でき私たちの活動は正午に終わりました。

参加者の声

2名の方から感想文を頂きましたので御紹介します。

病院移転ボランティアに参加して

今回は、南三陸町志津川病院移転のボランティアとして、二年ぶりに石巻を訪れた。 前回との大きな違いは、被災者である患者さん、そして被災者である看護師さんと直接お話しできたことである。

志津川病院に到着し、まず患者搬送のお手伝いや担当振り分けについてのオリエンテーションを受け、共に活動する看護師さんを紹介された。 凛とした印象の方で、担当する患者さんのもとで声をかけ、移動の荷物準備を入念に行っていた。

搬送前、はじめはあまりわからなかったが、次第に緊張した空気が流れ始めた。

しきりに患者さんに声をかけ、口早に緊張すると話している看護師さんや、逆に椅子に座りあまり動かず神妙な表情の看護師さん、準備万端の荷物を背負ってあちこち落ち着かない様子で動き回る看護師さん…。

搬送が開始され、担当の看護師さんと共に一人目の患者さんをベッドでエレベーターに移動した。 エレベーターを降りると搬送救急車用のストレッチャーが待っていて、沢山の関係者の方が揃って患者さんの移動に手を貸していた。

一人一人の患者さんに、これだけ手厚く丁寧に緊張感をもって関わることがあるだろうかと驚いた。

後に振り返って、震災とその後の時間を共に過ごした患者さんとの関係性がそうさせたのではないかと思えた。

何としても無事に移転を成功させたいとの思いが形となって表れ、緊張を生み、また一体感が生まれていたのだろう。

搬送が進む中、待ち時間の間に、二人目に担当した患者さんとお話しすることができた。 他愛のない世間話から始まり、ぽつりぽつりと震災の話をされていた。

「入院前だったからね…畑で作業していたから助かったんだわ」

あれから数年たっていても、記憶は確かに残っている。

そして搬送の順番となり、担当の患者さんと看護師さんと共に、気仙沼救急隊の車両に乗り込んだ。

30kmの距離を移動する中、看護師さんが「南三陸に来られたことありますか? 見たら驚かれるかもしれません」と話し始めた。

車両の窓からみると、土が盛られている状態の所がまだ多かった。

「これまでこの30kmをかけて病院と家を往復していました」

看護師さんもまた、私が想像するよりも遥かに沢山の思いがあるのだろうと感じた。

無事搬送が終了し、新しい病院に患者さんが到着された。

別れるとき、患者さんが「遠くから来てくれてありがとう」とつぶやいていた。

私はこの先もこのような時を重ねて、体験したことを忘れずにいたいと思う。

佐竹 恵

photo バスで移動します
photo 南三陸病院の看板

南三陸町病院が開設

「津波が襲来しています! 高台へ逃げてください」

防災庁舎から流れた女性職員の呼びかけ。たくさんの町民が命を救われたと言われています。

時を経て4年9カ月、志津川病院が「南三陸病院」と名前を新たに開設しました。

町の皆さまがどんなに待ち望んでいたことでしょう。

町民の方々の利用状況を考えて、保健・地域包括支援・子育て支援・地域活動支援・南三陸町保健福祉課も併設され、復興して頑張っていますよと言われているようです。

私たち23名、その復興のお手伝いがほんの一部ですができたことはとても感慨深いものでした。

3.11…長く大きな揺れに、どこで何が起きたのかと緊張と怖さで指先から体温が奪われていくのを感じていました。

三浦市に勤務していた私は、横浜まで6時間以上かかり電話も通じない、停電で街灯もついていない、長蛇の車のライトが周りを照らす異様な道を帰路についていました。

きっと私だけではなくこの関東に住む人は、私以上に怖い体験をされた方もいらっしゃるでしょう。

帰宅して見た映像に鳥肌が立ちました。あの大惨事から5年になろうとしています。

看護師である私は東北の出身でもあり、何かできることはないかと被災された陸前高田市に通うようになりました。

大したことはできていません。ボランティアセンターから復興サポートステーションという名前に変わりましたが、訪れるたびに皆さんの笑顔が増えていると、出会えたことにとても感謝しています。

宮古市出身でNSPを結成されていた中村さんが歌われている“Beside You”という、被災されたご自分の故郷の宮古市を訪れて作られたという歌があります。

「静けさを取り戻した青い海…やませの冷たさ…ふるさとの人の悲しみ…思い知らされた幸せの意味…些細なことに幸せを知る…離れていても寄り添うこころ…忘れないでほしい決して一人じゃない…いつも寄り添っている」

宮古市を訪れた時、変わってしまった街並みを見て「“言葉がない”という言葉の意味を初めて知った」と語られています。

地元の方に何かしてあげたいと言うと「大丈夫! 私たちは自分たちで何とかできる、あなたはあなたのやるべきことをやってください。歌ってください。ずっと歌ってください、声が聞こえてくると元気が出る」そう言われて逆に励まされたと話しておられました。

Beside You――いつもあなたのそばに。その思いがとても感じられるそんな歌に出会いました。

「気にかけて忘れないで」そう思いながら、日々復興に頑張っている岩手、宮城、福島のみなさんに想いを馳せています。

地震だけではなくその後も土砂災害や火山噴火の被害、水害と大きな自然災害でたくさんの方の尊い命が失われています。

自分が身をもって感じた「怖さ」を忘れず、被災された地域を訪れたら何か一つ手伝えたらいいと思っております。

原 美智子

photo 開院祝いに
photo 台湾からの建設支援への感謝を刻む碑
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