山﨑達枝 災害看護と私 Disaster Nursing

山﨑絆塾10回開催記念会

「東日本大震災で活動しながら学び得たことを風化させてはいけない」――その思いから、2012年9月2日に第1回の山﨑絆塾を開催しました。

その後、弱小な絆塾も多くの方からのご支援を頂き回を重ね2016年9月4日になんと10回目を開催することができました。

この山﨑絆塾10回開催を記念して、2016年11月5日(土)~6日(日)に、東日本大震災の被災地でもある宮城県松島にて記念会を開催しました。

記念会では、東日本大震災で被災された方々をお招きして「5年経過した今だから話せる」と題して体験談をお話して頂きました。

紅葉の季節、赤・黄色と色づいた木々の葉、色とりどりの落ち葉をサク・サクと踏みしめるのも心地よく、2日間とも日差しは優しく暖かな天候に恵まれました。

波も穏やかな日差しを受けてキラキラと光って眩しいその海面を見ながら、「どうしてあのようなことが起こったのか」と切なく思うほどでした。

photo 山﨑絆塾長記念会開講のあいさつ
photo 参加者記念撮影

参加者の声

参加してくださった方からお2人の感想をご紹介いたします。

山崎絆塾の記念会に参加して

山崎絆塾に参加して、いつも思うことは、山崎塾長の人脈の広さです。

今回、第10回記念会では、東日本大震災の被災体験を持つ4名の方がそれぞれの体験を発言して下さいました。

よくぞまぁ、これだけの方を引っ張り出して下さった、との思いのみです。

と共に、あの時のことを昨日のことのように語る4名の姿を目の当たりにして、その体験がもたらしたものの深さについて、改めて思い知らされました。

岩手県山田町の阿部さんからは、親と子の関係、特に母親が息子の無事を思う気持ちの強さを教えてもらいました。

懇親会の席が隣り合わせだったということもあり、また「これからもがんばれ!」の意味も込めてのことでしょうが、山田町の女性組織の方々がまとめられた手記をいただきました。

冒頭のものは阿部さんご自身のものです。手記に込められた一つ一つの思いをどう受け止めていけばよいのでしょうね。少なくても、年2回の被災地踏破はずっと続けなくては、という思いは新たにできました。

南三陸病院看護部長の星さんとは、お会いするのは2回目になります。前回も同じ山崎絆塾のご縁であり、南三陸病院開院にあたり、仮病院のあった登米市から入院患者さんを転院搬送した際にお会いさせていただきました。

転院搬送される患者さんのほとんどは、会話もままならなかったことが強烈な印象として残っています。

被災と、復興過程で進む若い世代の人口流出の中で、幹部職員として新病院を運営している訳で、頭が下がります。

山崎塾長が看護部長のメンタルケアに特に取り組まれている姿を私たちは見ている訳ですが、なるほど、そういうことなのだよなぁ、と、妙なところで納得していました。

福島県浪江町の津島診療所におられた天野さんは、震災後診療所を一旦は退職したものの、去る者ゆえの葛藤があり、別の場所で仮診療所を再開させた昔の仲間の元へついには戻る決断をされた、その心の揺れるさまを語ってくれました。

去る者だって去りたくて去る訳ではないはず。とはいえ、もう一度仲間の輪に入るにあたっては、天野さんはもちろん、受け入れる昔の仲間の側にも、複雑なものがあったことでしょう。

女川町立病院におられた高橋さんのお話しには、管理職でありながら、その日、その場に行けなかった者ゆえの複雑な思いが込められていました。

大規模災害の状況下ゆえ、物理的にどうにもならないこともあります。

持ち場に行けない分、与えられた場で全力を尽くしたとしても、それでも、満たされない何か。短い時間ではありましたが、その複雑な思いのわずかな部分ではありますが、受け止められたのではないか、とは思っています。

改めて記念会を振り返ってみる時、山崎塾長は、よくぞまぁ、これだけの方々とお付き合いしているものだ、と、その人間関係の広さ深さに恐れ入るのみです。

私たちは、絆塾のメンバーであればこそ、こういう話をうかがうことができた訳ですよね。

こういう得難いメッセージを直接託された者は、これから先、何に、どのように、取り組めばよいのか。

決めたことが少なくても一つあります。それは、来年の3月11日の前後、何度目かの現地踏破に出かけること。

その時、今回お会いした4名のうちのどなたかであれ、再会したいもの、と思っています。

その時、少しでもモノを考えている姿を見てもらえれば、それが、このような内面に関わる話を聞かせてもらったお礼ではないか、と。

常葉大学社会環境学部 小村隆史

山﨑絆塾に参加して

松島海岸駅で下車すると眼前に海が広がっていた。3.11当時は閉鎖された崖の上の駅。紅葉をお目当てにした客らに押し出され改札を出た。

あれから5年余り、以前と同じ穏やかな日常があるかに見える。遠くに海を見渡すホテルで再会と山﨑絆塾の開校を喜びあった。講師の4人は全員が被災されていて、3人は以前取材でお世話になっていた。

山田町の阿部さんがまず被災体験を語り始めた。

津波の渦に飲み込まれ、乗っていた車がぐるぐる回る。「これは夢なのかな」、目の前の光景がにわかに信じ難かった。ドスン、車が木に挟まり奇跡的に脱出、だが試練は続いた。

息子の安否がわからない。「帰してください。何もいりません。お願いです」。思い出すだけで涙が止まらなくなる。幸い息子は帰ってきた。いっぽう、帰ってこない人たちが大勢いた。

故郷・浪江町を「帰還困難区域」に追いやった原発事故。

天野さんは小学3年の息子を前に「子どもを守るか」「職場に戻るか」という極限の選択を迫られた。ひどく動揺し、健康への底知れぬ不安が続いた。

当たり前の存在だった故郷は汚染され、お墓参りさえできない。奪われていった多くのもの、全てが当たり前でなくなった。

南三陸の前看護部長 星さんが用意したスライド表紙には「東日本大震災を振り返って」と書かれていた。しかし開口一番「本当はまだ振り返れない。前を向かないと辛いことばかり」と涙ぐんだ。

去年12月、南三陸病院は新病棟で再スタートを切り、復興のシンボルだが、津波で命を失った多くの入院患者や職員らのことが脳裏から離れない。

流れる涙を拭う星さん。笑顔を取り戻すとこう語った。「災害看護は看護の原点です」。町の人々に寄り添い、原点を見つめ続けた5年余りだった。

女川町立病院の看護部長だった高橋さんは、津波から九死に一生を得て、やっとの思いで病院に駆けつけるも「遅い」と責められた。

苦悩した高橋さん。重責を担い孤独だった。心が折れそうになったが、現場に立ち続けた。それぞれの姿から浮かんできた言葉は「東北のナイチンゲール」。彼女たちは被災地とともに歩み続けている。そして静かに胸を打つ。

紅葉のライトアップで賑わう松島海岸。思えば、東日本大震災の以前と同じ日常なんて決してない。

けれども、以前より懸命に前を向いて生きようとする確かな日々がそこにある。そう実感できた絆塾と講師の皆さんに深く感謝したい。今後も絆塾が続きますように…。

毎日放送報道局 番組ディレクター 斉加尚代

写真報告

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講演 岩手県山田町から来てくださいました阿部秋子さん
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講演 福島県浪江町から来てくださいました天野 早苗さん
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講演 宮城県南三陸町から来てくださいました星 愛子さん
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講演 宮城県石巻市から来てくださいました高橋 洋子さん
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乾杯 斉加さんの一声で和やかにお食事が始まりました
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懇親会閉会 小村さんよりご挨拶
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